あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

『最後まで行く』本家との比較をしてみたよ!

 

はじめに

私は「リメイク作品」というものを好んでみることがない。基本的に本家が至高であると思っているし、とりわけ海外から輸入したリメイク作品に関しては積極的に観ようとは思わない。だから『最後まで行く』に関しても、少しだけ懐疑的であった。だが、それは杞憂に終わった。気づいたら映画館に通っている自分がいる。ここまでハマるとは思わなかった。事前の予想を、いい意味で最大に裏切ってくれた。『最後まで行く』は、私にとって最高の映画であった。

今回は、そんな映画についての、特に本家との比較についてをつらつら書いていこうと思う。

 

基本情報

『最後まで行く-HARDDAYS-』

出演:岡田准一綾野剛広末涼子 他(敬称略)

監督:藤井道人(敬称略)

脚本:平田研也藤井道人(敬称略)

配給:東宝

映画『最後まで行く』公式サイト│大ヒット上映中!!saigomadeiku-movie.jp

 

本家・韓国版『最後まで行く』

 ところで、読者様は本家版をご覧になっただろうか?もしNetflixに加入しているのなら簡単に見られるので是非とも履修することをオススメする。本家版を見るのと見ないのとでは、日本版の解像度も多少変わってくるだろう。

https://www.netflix.com/jp/title/80013285

 2014年に公開された『最後まで行く』は、非常にスタイリッシュな映画であった。泥まみれになったり血まみれになったりはするものの、それでも洗練された作り物である、という印象を受けた。この点から既に、日本版との違いが現れている。様々な違いがあるので、ここでは改めて韓国版のあらすじからなぞっていこう。

韓国版のあらすじ

物語は主人公であるコ・ゴンスが母親の葬式を巡る問題のストレスから逃れるために車を暴走させ、人を轢いてしまう場面から始まる。葬式に参列していたのでもちろん酒は飲んでいる。息をするように為される飲酒運転である。刑事と言う身分で人を撥ねるなど言語道断、100%捕まるそれは嫌だ。と言うわけで、死体をトランクに隠す。飲酒検問に引っかかり、抵抗したため催涙スプレーをかけられトランクを開けられそうになる危機もあったが、「コ・ゴンスは本物の刑事だ!」と証明できたあと、急に立場が逆転するのには笑ってしまった。交通課の人達、可哀想に……

なんとか死体を隠し、母と一緒に埋めたゴンスであった。しかし、刑事としての次の仕事でまたもや危機が訪れる。与えられたのは指名手配犯の捜索。その男こそ、ゴンスが轢き殺した男であった。さて、どうするか…と思っていた時、頻繁にイタズラ電話が掛かってくる。内容は「お前は人を殺した」という、ゴンスにとっては気が気では無い内容である。この電話をかけたのは、同じ署内の監察官であるパク・チャンミンでこいつが究極に悪いヤツだった。

チャンミンは、麻薬捜査官であった当時、押収した麻薬を着服し、それを元手に金を稼ぎ風俗店を経営し派手に儲けていた。その稼いだ金を預けた金庫の鍵を盗んだのが、例の死んだ男であった。

自分の財産を血眼で探すチャンミンと、自らの罪を隠し通したいゴンスの追い追われるクライムサスペンス。追い詰められた2人は壮絶な死闘を繰り広げ、チャンミンは息絶える。チャンミンの死後、明らかになった多くの不正に警察署内は上を下への大騒ぎ。その中で、上司に引き止められつつもゴンスは辞職し、警察を去る。そして、手に入れた金庫に向かい、想像を遥かに超える巨額の金を手に入れるのであった…。

これが本家のストーリーである。

文化の違い

さて、読んでいただくだけでも分かるように、だいぶ違う。もう、設定が同じだけの別な映画と言っても過言ではないくらい違う。けれどこれはもうしょうがない。

忠実なトレス<<<越えられない壁=文化の違い

これが、1番簡単な説明であると信じている。

だって、いくら近いとはいえ韓国と日本じゃ文化が違いすぎるんだもの!!!だから初期設定から違う。

韓国版ではお母さんは既に亡くなっているし、ゴンスは妻と離婚したシングルファーザーで妹夫婦と共に暮らしている。汚い金の水源は麻薬だし、ゴンスの行き着いた『最後』は巨万の富だ。なんでここまで変えた?と思うかもしれない。でもこれらは変えざるを得ない設定だ。

現代韓国において、最も主流の宗教はキリスト教である。棺に入れての土葬であるので初手が葬式の方がスムーズに別の死体を隠せる。しかし日本はどうか?大多数が仏教式の葬式を挙げ、基本的には火葬される日本において、初手が葬式では別の死体を隠す前に全部が終わってしまう。そう、前提が揺らぐのだ。

次に離婚について。現代日本においても、結婚した夫婦の3組に1組は離婚するとの統計が出ているそうだが、韓国の離婚率は52%とその比ではない。2組に1組は離婚している。よってシングルファーザーはそう珍しい話ではなく、さほどの危機ではないが、日本では十分な「危機」である。これを利用しない手は無い。改変も頷ける。

そして、隠し金庫の中身だ。韓国の麻薬犯罪の露見率、これもまた日本の比では無いらしい。きっと「悪=麻薬」の式があるのだろうと想像する。しかし日本ではそこまで一般的でもない。想像しやすく明らかな「悪の象徴」であるのはヤクザ屋さんであるだろうから、こちらにご登場いただくのが最も分かりやすい。

自国の価値観に合った内容にすること。それは、映画においては忠実な再現よりも求められることだと思う。現に私は、韓国版よりも日本版に感情移入できたし、日本版の方が好きですらある。だからこれは、大規模な原作改変と言うより必要な措置であったとすら感じられるのだ。

結局どうなん?

コ・ゴンスは工藤ほど薄汚れていない。家族に囲まれ幸せそうだし、汗だくになりながらダクトを這いずり回りホコリまるけになったりしない。危機は訪れるがなんだかんだ回避するし、あまり血も流さない。最後は棚からぼたもちを手に入れる。

パク・チャンミンは矢崎ほど狂ってない。ゾンビよりもゾンビな狂人ポンコツ殺戮マシン矢崎の狂気はチャンミンの数段上だ。本家では彼の内面描写はほとんどなく、本当に血の通った人間かな?と疑いたくなるくらいであったが、矢崎ほどの常軌を逸した様子はなかった。

もちろん、同じ部分もある。情に厚い同僚刑事や世渡り上手な上司。上からドラム缶は降ってくるし、去り際に爆殺しようともする。けれど、メインの2人がここまで違ったら、それはもう別の映画として楽しんでもバチは当たらないだろう。私個人としては、両方とも面白かったし楽しんで鑑賞できた。ただやはり、肌に合うのは日本版だし、だからこそ日本版の方が好き。それだけの話だ。

この感覚は、両方見なければ味わえないだろう。良ければNetflixを開いて見てほしい。こきっと後悔はしないだろう。

 

最後に

溜めに溜め抜いた観劇レポを完成させるよりも、そもそも映画の感想をあげるよりも早く、日韓比較をすることになるとは思わなかった。

正直これは殴り書きに等しいものであるし、後々読み返した時に恥ずかしくなる誤字脱字勘違いに溢れているかもしれない。その時は修正することを許して頂きたい。

書きたいものが沢山あるのに時間が追いつかない現状、とりあえずも『最後まで行く』に関するブログを1つ書き上げられたことには、少しばかりの満足を覚えている。この調子で溜めているものを書いてしまいたい……

 

と言うわけで、ここまで読んでくださりありがとうございました!また次のブログでお会いしましょう!デハマタ!

推しは推せる時に推せ

『推しは推せる時に推せ』

なにかのオタクをしている人なら、1回は聞いたことのある言葉だと思う。これはきっと、何かを推す上で欠かせない重要な要素だ。

誰だって、趣味で後悔したくない。

芸能界を震撼させるニュースが走る時、誰かが必ず呟く言葉がある。「推しは推せる時に推せってホントだったんだよ……」「今推しがいる人は後悔しないようにね……」って。そこには、目の前の虚像や理想を失いかけている絶望や、タラレバの後悔が滲んでいる。浸っていられる間に、もっと浸っていたかった……って。

でも、その想いの根本が飽くなき欲望である限り、後悔のない推し方なんて、きっと存在しないんだ。

結局、どれだけ頑張って推してても、いつか来る終わりの時には後悔してしまう。オタクの欲望は尽きないけど、財布と時計には限界がある。だから、オタクはいつだって取捨選択を迫られる。よって、誰にだって何かを諦めた経験があるだろう。つまりそれが後悔の元なんだから、後悔のない推し方なんて、きっと存在しない。

なんでこんなことをつらつら考えてるかって、それはここ最近、1つの大きな喪失があったからだ。

 

2023年4月15日

四代目市川左團次丈が急逝された。

 

私がこのニュースを知ったのは4月17日の4限の講義を受けている時だった。講義中にTwitterを覗き見る不良大学生である私だが、その直前の土日は部活で忙しくしていたので、SNSをはじめ、一切のニュースを目にしていなかった。

だから、パッと目に入ったその文字が信じられなかった。認識して、理解した途端、涙が止まらなくなった。

そのくらい衝撃だった。だって本当なら今月も、来月も再来月も会えるはずだったんだもの。だって、1月は元気に国立劇場に立たれていたんだもの。だって、ご病気されてるなんて知らなかったんだもの。

左團次さんは、背が高くてちょっと強面で、悪役をされることが多かった。けど、実際はすごく陽気で、真顔でふざけたことばっかりして、よく笑わせてくれる素敵な人だった。

いつから存在を認識してたかなんてもう覚えてない。歌舞伎にはいつだって左團次さんがいた。それもそのはずなんだ。いくら小さい頃から観ていたと言っても、私の観劇歴はたかが15年くらいで、左團次さんの芸歴の4分の1にすら及ばないんだから。

よく通る声が好きだった。大柄な体格が魅せてくれる型が好きだった。何より、ユーモア溢れる口上が大好きだった。

当たり前の存在が喪われた。もう二度と舞台で見られない。そんなのは……あまりに陳腐な言葉だけど……そんなのは辛すぎる。

 

V6の最後のライブで、井ノ原くんはこう言った。

「別に、死ぬわけじゃねぇんだから!」って。だから大丈夫だぞ!って、V6が思い出になってしまう事に、どうしようもない寂しさを抱いていた私たちを励ましてくれた。

私は、例え推しがその命を終えたとしても推し続けていける自信がある。だって、死んでも愛してる。愛してるんだから生死は問わない。死んだって大好きなことに変わりはないんだから。ヨカナーンの生首に口付けしたサロメは、こんな気持ちだったんだろうか?……ちょっと違うかもしれない…まあいいや。

去年、十八世中村勘三郎が亡くなって10年が経った。私は中村屋贔屓だから、「あぁ…もうそんなになるのか……」って寂しくなった。

亡くなって10年。今だって大好きな役者さんだ。勘九郎さんに面影を見ては泣いてしまったり、勘太郎くんが大きくなるにつれて感慨深くなったりする。

それが、歌舞伎の推し方だってわかってる。

大幹部連中の勇姿を見届け、花形役者さんたちの成長を見守る。贔屓の息子は贔屓だし、贔屓の孫は可愛くてしょうがない。それが400年繰り返されてきたのが歌舞伎役者と贔屓筋の関係なんだろうなって、若輩者の小娘が思うなどしてる。

でもね。

二度と更新されない大好きな人を想い続けるのは、時に虚しくて、時に悲しくて、不意に涙が出てくるようなものなんだ。

私の、所謂「推し」の中で最年長なのは十五代目片岡仁左衛門丈。御歳79歳。母方の祖母と同い年だ。体調を崩されて休演される度に胃が痛くなるほど心配してしまうし、一世一代が増えていく度に寂しくなる。後悔のないように、仁左さまが出演される舞台は欠かさず行くようにしている。

それでもきっと、いつかの日には後悔してしまうんだろうなって思うんだ。

歌舞伎を推し続ける限り、定期的に、悲しいニュースに触れることになる。同じくらい幸せなニュースにも触れられるけど、埋められないものは確かにあるんだ。

去年9月の秀山祭。吉右衛門丈の追善口上を聞いて、会場のほとんどの人が鼻をすすってた。私だって、例に漏れず泣いた。

 

別れは寂しいけど、いつかは来てしまう。その時まで、全力で推し続けることは、できるのかなぁ……

誰かを、何かを、好きで居続けることは、ものすごくエネルギーを使う。感情が起点となって遠征したり、配信を買ったりするんだもの、言ってしまえば正気の沙汰では無い。でもそれがオタクってもんだし、それが私の生きがいだからこのままでいいと思ってる。

推し事にゴールなんてないし、1度好きになったものを無かった事には出来ない。相手が彼岸の人だろうが、自分の命が尽きるその時まで好きなんだろう。だから推しが増えてく一方なんだけどね。

 

有名人を一方的に愛し続けると言う狂気「オタ活」を続けていく上で、後悔のない事なんてないと思う。辛い思いをしないことなんてないと思う。いくら全力で推していても、いつか来る別れの時に「あ〜もっと早くに出会っていたらな……もっとこうしていたらな………推しは推せる時に推せだなぁ……」って思ってしまうんだろう。

でも、その後悔を少し軽くするためにも、今できる全力を尽くしたいから尽くすことがつまり「推しは推せる時に推せ」ってことじゃないかなぁって思うんだ。

 

なんだか、よく分からない文章になってしまった……こんなものをつらつら書くくらいなら観劇レポを早く書きあげろって思うよな…私もそう思う。けど、一旦整理したかったんだ。

ここまでお付き合い下さりありがとうございました。また別なブログで会いましょう!!Fin!

2023年現場初め

 明けまして(2ヶ月が経過し、もはや3月ですが)おめでとうございます!

 今年も元気にオタクをしていく所存でございますので、本年もよろしくお願い致します。

さて……

 2023年は、4日から授業に追われ、部活の合間を縫って泣きながら課題を片付け、徹夜で勉強しつつテストを受け、発狂しながら単位を追い求めていたらもう3月。限界大学生の心休まる瞬間なんて、現場に浸っているときくらいのものです…

 本当は、現場が終わるたびにブログをしたため、感想を垂れ流したいのですが!なにぶん遅筆な上に、やらなければならないことが山積しておりますゆえに、それもなかなかできず…気づけば月日が経過してました!本当にびっくりだよね

 と、言うわけで、すべてをブログにしている暇がないので、この3ヶ月の現場をパパッと振り返っていきます!!

20th Century Live tour 2023 Billboard Live OSAKA

 はい!行ってきましたニコンビルボ

 まず、近いし音響はいいし目は合うし細かい動きまで追えるしお酒は飲めるしで最高の空間でしたね…はい…

 登場の時に、客席後方からトニセンがやってきて、通路を通って行ったんですけど、もう目と鼻の先に坂本くんが来てくださって大興奮でした…ありがとう声出し解禁…

 とはいえ、ビルボードライブなのでね、歓声は控えめでした。ファンサうちわも出せなかったなぁ…

 でも、坂本くんにお手振りもらったし、井ノ原くんにも手を振ってもらったし、長野くんの大好きな横顔をずっと眺めていられたので幸せでした…

 欲を言えば、ホールコンにも入りたかった…ホールとビルボ、レポを読んだ感じ、結構違ったようなので…でもまぁ!円盤で補完しますかね!

 redも聞けたし!ニコンを生で見られたし!最高空間で最良のトニセンを浴びることができて幸せでした…

二月大歌舞伎

 二月大歌舞伎は、どうしても行きたかった。

 なぜならば!

 片岡仁左衛門丈の一世一代だから!

 去年の同じ時期も「仁左さまの一世一代なんて…そんな…(泣)」となりながら、歌舞伎座デビューを果たしました…

(↓去年の二月大歌舞伎の感想ブログ)

aoino-sabu.hatenablog.com

去年の2月24日のことはよく覚えている。なんせ、戦争が始まった日だから…あれから1年かぁなんて、感傷に浸りながら歌舞伎座へ参りました。

さて!

仁左さまが一世一代とされた演目はこれで4作目。先日(3月14日)に79歳を迎えられ、体力的にもできる演目が少なくなってくるのは仕方がないにしても、ファンとしてはさみしいのは事実…え~ん…でも仁左さまがお元気でいてくだされば十分なんだけど…十分なんだけど…

仁左さまの悪役は最高なんだよぉぉぉお!!!

人を殺してニヤリと笑ったり…大雨の中もみくちゃになって殺されたり…色男!!もう色男!!本当に男前!!よっ!15代目!!

大向こうさんたちの大向こうのタイミングも神だったなぁ…久しぶりの大向こう…最高…

二月大歌舞伎に関しては、ちゃんとブログにしたい…三人吉三も大好きだったから…

最後に

 去年は、入院という不測の事態により「毎月現場に通う」という密かな目標は達成されなかった訳なんですけど、今年は順調に月1で現場に通えてます!やったね!

 3月も、24日に健くんの25日に歌舞伎の現場があるので東京に行きます。

 やりたいこととやらなきゃいけないことの区別をしっかりつけて、日常も頑張りつつオタクも頑張っていくことを目標に、今年は生きていきたいです!

 改めまして、今年もよろしくお願いします!!(遅い)

『あくてえ』読書感想文

『あくてえ』(河出書房新社作:山下紘加

はじめに

私は、作られた世界が好きだ。

ということは、このブログを何度か読んでくださっている方にはほんのりと伝わっているかもしれない。「作られた世界」と言うのはつまり、創作物のことである。私は、創作物が好きだ。それは、時に演劇であり、時に音楽であり、そして小説である。

読書というのは、贅沢な楽しみだと私は思う。本を読むためには文字が読めなければならず、文章を文脈と結び付けて読み進めていくためには一定の訓練が必要であり、さらにその中から筆者の意図などをくみ取るには感性が必要だ。だから、普段何気なく行っている「読書」と言うのは、意外と難しいことなのかもしれない。

この『あくてえ』の主人公・ゆめもまた、本が好きな女性だ。小説家になりたいという夢も持っている。しかし、現実がその夢を阻んでいく。

ごくごく身近なことを描いたこの作品は、読んでいるこちらの心も揺さぶるものであった。

今回は、そんな『あくてえ』の読書感想文をつらつらと書いていく。

『あくてえ』を読んで

 大人向けの児童書だと思った。簡単な言葉で綴られていく文章はスラスラと読むことができ、一人称で進んでいく物語は、語られる視点が一つであるため混乱もしない。読んでいるうちに、児童書を読みふけっていた幼いころの記憶が呼び起された。しかし内容は、そんなやさしいものではない。

 主人公の松島ゆめは、「きいちゃん」と呼んでいる母親の沙織と、心の中で「ばばあ」と呼んでいる父方の祖母と一緒に暮らしている。高卒で派遣社員をしている、19歳の小説家志望の女の子だ。家は、90歳になる「ばばあ」の介護を中心とした生活となっており、働いても働いてもお金の心配ばかりせざるを得ないギリギリの生活を送っている。めまぐるしく起こる諸問題に対し、戸惑い、苦しみ、藻掻きながら「日常」を送っていくしかない「あたし」の物語が、広がっていた。

 ゆめに共感できない人間は、きっと幸せだ。だが、全く共感できない人間など存在しないとも思う。少なくとも私は、胸が痛くなるくらい共感した。

 私には、78歳になる祖母がいる。「ばばあ」とは違い、優しくて自分のことより他人を優先してしまうような女性だ。それでも、時に過干渉な側面や、人の話を聞かないところなどにイライラしてしまってつらく当たってしまう時もある。本当は、いつだって優しく接したいのに、口から出る言葉は心と正反対のことばかりだ。一緒にいられる時間が、もう限られてきているというのに、きっとおばあちゃんはいつまでも元気でいてくれると信じてやまない。言い過ぎた、と思ったときにはもう遅く、後悔ばかりが押し寄せるが後に返ることもできない。ゆめと「ばばあ」の関係も、似た部分がある。ゆめはいつだって「ばばあ」に優しくしたい。「ばばあ」のことを心から嫌っているわけじゃない。そうでなければ、吐瀉物や糞尿の始末など、どうしてできようか?いや、できるはずがない。

 私のように、祖母を大切に思っている人もそうだし、夢を追い続けているひと、両親との関係に悩んでいる人、恋人との関係に悩んでいる人など、どんな人にでも、なにかしら共感できる部分のある作品であると思う。ゆめは、いつだってすべてに「あくてえ」をついているのだから。

 ゆめは、自分ではどうしようもできない問題に対してとことん無力であり、そんなやり場のない気持ちを言葉にできずにモヤモヤしている。小説家志望にも拘わらず、そんな気持ちを表現できない自分にもいら立っている。そして、自分を守るために他者を攻撃するのだ。「ばばあ」に悪態をつき、彼氏に当たり散らし、父親を見限る。そんな、強い人間だ。

 いくら自己表現ができないと悩み、涙を流していても、ゆめは強い人間だ。どんな現実もしっかりと受け止め、道をそれることなく毎日を生きている。「しにたい」と口にしても、現実をしっかり生きていくだけの覚悟がある。人に甘えることもできる。私は、ゆめのような人に憧れる。

 『あくてえ』は、「松島ゆめ」の人生の一部分を写真に収めているかのような作品だ。だから、結末も一見、尻切れトンボのように思える。何も解決されていない。ただ、ループのように日常が続いていくだけの物語だ。応募した小説が二次選考に進んだり、父親との縁が切れたりと、最後に向けて前進する展開もあるが、基本的には何も変わらない。「あたしが書く小説は必ず終わりを迎えるし、良くも悪くも決着がつくのに、現実はそうではない。ずっと続いていくのだ。」という本分の通り、明確な終わりを示さずに物語が途切れる。読者は一瞬、置いていかれた感覚に陥るが、これは人生の一部を描いていたのか、と腑に落ちる。

 人を選ぶ作品でもあると思う。生々しい描写も多く、決して綺麗とは言えない作品であるからだ。現実から目を背けたくて、物語の世界に逃げ込みたいという人には向かないだろう。しかし、押し寄せたまま引くことを知らない波のように、ドッと駆け抜けていく人生の一部を垣間見ることはできる。そこに出口はなくとも、言い表せない感情を文字にすることはできるのだと教えてくれる。そんな作品であると感じた。稚拙な作品だと一蹴するのは容易いかもしれない。しかし、この作品から何を感じ取り、どのように自分に投影するのかによって、自分を見つめ直す機会を得るのではないだろうか?

 人生をスパッと切り取ったとき、きっとその鮮やかな断面は、このようであるのだろうと、そう感じられる作品であった。もう一度読み返したいか?と問われたら即答はできないが、一読の価値はあると思う。気になった方は、是非お手に取って読んでみることをお勧めしたい。

 

『凍える』の感想

2022年11月12日13時開演 穂の国とよはし芸術劇場プラッド

 

芯から凍えた。文字通り、震えるくらい鳥肌が立った。下手から重そうなスーツケースを引きずりながらヒステリックさ満点のアニータが登場した開幕から、光と闇とをこれでもかと見せつけられた終幕までずっと。全編通して息が詰まる舞台なんてそうそうない。生半可なホラーよりもよっぽど怖かった。それはきっと、人間の冷たい部分に触れてしまったからだ。

今回のブログは、今年観た中でも1,2を争う激重作品『凍える』についての感想、観劇レポ。長くなったので目次でまとめる。なお、私が参戦したのは一回のみであり、初見の印象とパンフレット、そして自分の中の考えで文章を構成していく。以下に書かれるのは私の主観であることを、最初に断っておきたい。

基本情報

パルコ・プロデュース2022『凍える FROZEN』

作:ブライオニー・レイヴァリー 

翻訳:平川大作 演出:栗山民也

出演:坂本昌行 長野里美 鈴木杏

1998年イギリス初演

stage.parco.jp

全体の印象

小説を観ているような舞台だと感じた。とにかくモノローグ。モノローグに次ぐモノローグ。一幕は、そのほとんどが三者三様のモノローグだった。

コナンドイルを読んだことがある人には伝わるだろうか?少し前の時代に書かれた作品などは特に顕著だが、洋書と言うものはとにかく回りくどい。基本的に一人称で進んでいく物語、隙あらばなされる聖書の引用に、多用される比喩、そして何より、セリフですべてを説明しようとする。『シャーロック・ホームズ』を読んでいるときなど、依頼人のセリフが1~2ページ、またはそれ以上続き、どこからがセリフだったか、そもそも今まで読んでいたのはセリフだったのかがわからなくなる経験を、少なくとも私は、何度もしたことがある。そんな、洋書のような雰囲気を感じた。

舞台から「これは!イギリスで生まれた!ヨーロッパの演劇です!」と言われているような印象を受けた。例えばこれが、オペラなどの古典的なヨーロッパ演劇だったら、ラルフとアニータが恋に落ちて心中してしまったり、ナンシーがラルフを惨殺して自分も死んだりする気がするなぁ…。ブロードウェイなら、1人は白人でない人が出てくるだろうなぁ、アニータは男性社会で奮闘する「女性」精神科医ってのが強調されちゃうかも…?日本の演劇だったら、声高に死刑を求刑する人が出てくるだろうし、歌舞伎(…の、特に河竹黙阿弥※1あたりが脚本)だったら、ラルフは、ナンシーの里子に出した実子でローナは血を分けた妹だった!くらいのエグい設定を持ってきそうだなぁ。なんて、独断と偏見による勝手な解釈だけど、そんな違いを感じた。描く人によって、ものすごく変わる作品なのだと。

『凍える』からは、「テレビでよく見るヨーロッパの前衛的な演劇はこれか!」と言える何かが伝わってきた。こんなあやふやなことしか言えない、自分の語彙力の貧弱さに辟易するが、そう言うことだ。ニュアンスだけでも、読者様に伝わっていると信じたい。

演出・照明・音響

そう、演出が印象的な作品だったんだ。必要なもの以外は削ぎ落された舞台上に、効果的に使われるスクリーン。キーボードに合わせて文字が表示されていくのを見て、オフ・ブロードウェイミュージカル『The Last 5 Years』※2の演出を思い出した。

坂本くんが演じるラルフの登場シーンは印象的だった。パッと現れたシルエットの効果により、観客は坂本昌行を通してではなくダイレクトにラルフを感じられる。パキッと空間を切り裂くような照明は、音が鳴るように切り替わっていった。基本的には、舞台上の「黒」に対する照明の「白」という二項対立があったように感じる。唯一カラフルだったナンシーのお庭が、ローナの訃報がもたらされた瞬間色を失ったのがすごく頭に残った。それに、アニータの講演の時、宇宙を感じさせるような脳の様子を表した照明も。

SEは最小限だった。演者のお三方は地声でお芝居されていたし、それによって、アニータの講演の場面とラルフとの面談の場面が、マイクを使っているか使っていないかでうまく分けられていたのは本当にすごい発想だ。加えて、舞台上の音が上手く利用されていた。特にラルフが手を洗うシーン。そう、1番驚いたのは、ヨーロッパの輸入舞台で本水※3があったことだ。蛇口から本物の水が出てきた時、「わぁぁ本水だ……すごいヨーロッパの舞台にもこの概念があったのね……」と感動した。そして、蛇口から流れるチョロロ…と言う水音がBGMになっているようでさらに感動した。一幕の最初の方と、二幕の終盤に登場した本水だけど、今思えばあれは、ラルフの妙な潔癖さを表現していたのかもしれない。

『凍える』はケレン※4に富んだ作品だ。急にバタンッ!と大きな音がしたときは、ものすごくびっくりした。見ると舞台中央が屋根裏部屋の入口のようになっていて、ラルフが顔だけのぞかせて不気味に笑っていたのでさらに恐怖した。狐忠信※5かあんたは。

大道具

舞台装置も不思議だった。三本の道が真ん中で交差するようになっており、上手下手だけではなく中央奥からも出入りができるようになっていた。その「道」が全体的に斜めになっていたのも特別な理由があるんだと思う。「道」で場所と時間を区切り、照明で視線を誘導する。シンプルで静か舞台であったけど、不気味でもあった。

道に区切られた空間が、それぞれのテリトリーになっていた。上手側はラルフの、下手側はナンシーの。でも、アニータの居場所はなかった。彼女はいつだって道の上にいて、そしてラルフの方に寄っていた。これも、アニータが「罪」を犯していることに対する比喩なのかもしれない。

一幕最後で、三人が初めて同じ場所を通り、道が交差した。そしてそこから、一気に話が加速する。縦に走っていた「道」は、きっと越えられない大きな一線なのだと思う。二幕の終盤、ナンシーがラルフと面会した時に示された境界線が、それを象徴しているのではないだろうか?大詰めで、アニータとナンシーにあった決定的な差も、真ん中の線を越えられるか否かであったのではないだろうか?

椅子の使い回しも独特だった。ナンシーが、使えばそれは家具になったし、アニータが座れば飛行機の座席になった。今話しているのが誰かによって、その空間がどこなのかが変わるからだ。すごいなぁすごいよ…大道具は一切変わらないのに、周りを取り巻く演出がクルクル変わるから全部が変わる。観客にとってはついて行くのが大変だけど、それでも見応えがあるから引き込まれる。………ついて行くのは大変だけどね。

舞台上には無駄なものなんてない。全部に意味があって、全部が必要なものだ。だから、舞台装置にも注目して見ると、もっと面白く観劇出来ると思う。

考察

『凍える』には果てしないエゴイズムが描かれているのだと思う。
登場人物には、それぞれ事情がある。それは、底が知れないくらい深くて複雑なものだけれど、1番シンプルに言えば、全員がわがままで利己的なのだ。

人物評

ナンシー

ナンシーは、ローナを失って心を壊した。それでも、ローナは生きているんだと信じて活動団体を立ち上げて活動を続けた。なにも振り返らず、なりふり構わず、夫のボブも、もう一人の娘のイングリッドも気にかけず、ただまっすぐ、すがるようにローナを待ち続けた。狂信的で、妄信的で、見ていていたたまれなかった。かわいそうだ。でも、同情はできない。だって、ナンシーはいつでも自分が中心だったから。

悲劇の母親でありながら、懸命に他人のために、また娘のために活動している自分に、1種のアイデンティティを持っていたのではないだろうか?ローナの訃報で色を失った花はつまり、ナンシーが手塩にかけて育ててきたイングリッシュガーデンだ。庭の手入れを頼んだがために、ローナはラルフに攫われた。にもかかわらず、ナンシーの庭はいつでもカラフルだった。「庭」が、ナンシーの自己表現だったのではないだろうか?子供にも夫にも注がれることのなかった、行き場のないナンシーの「愛」が、あのカラフルな庭に反映されていたのではないだろうか?

だから、ローナが本当に死んでしまっているのだと分かったとき、全部が崩壊してしまったのだと思う。色を失った庭は、その象徴だ。

「何も私を引き留めないなら、その時私は自由になる」印象的な、ナンシーの言葉だ。では、ナンシーは何に引き留められていたのだろうか?

母親としての役割も、妻としての役割も放棄していたナンシーを引き留めるのは何か。それは、ラルフの犯した罪であり、失った娘のローラであり、そして、それに固執する自分自身であったのだと思う。

ローナだけの母親であったかのように、長女のイングリッドを無視した自分。その反面、ずっと「ローナの母親」であって「ナンシー」ではなかった自分。そして死刑のないイギリスの法制度を恨み、復讐の機会のないことを恨み、ラルフを憎み続けた自分。その全部を清算して、自由になりたかったんだとおもう。

諸悪の根源は、間違いなくラルフだ。だからナンシーはラルフを許して、憎むことをやめた。そうやって自由になった。許したのはラルフのためでも、イングリッドに言われたからでもない。ただ、全てに疲れたから、自由になりたかっただけだ。

アニータ

アニータは一番のエゴイストだ。自分の、いや、自分たちの研究を完成させることだけが目的で、そのためだけに生きている。

ラルフと面談しているときのアニータは、人間と面談しているというよりも、チンパンジーを観察しているようだった。「足が動きにくいことは無い?」「鼻を触ってみてもいい?」全部、自分の研究に必要なことだけしか聞いてない。嫌がるそぶりを見せられたときにさっと引くのも、ノウハウが分かっているからだ。ラルフが虐待を受けていたと分かったとき、心のどこかで喜んだのではないだろうか?同情しつつ、これで完璧なデータが得られたと。アニータにとってこの研究は、好きだった男との子供のようなものであるだろうから。

自分の「罪」をどう捉え、どう扱うか。そればっかりに囚われて、最後は自分の都合のいい答えになるようにラルフを誘導した。ラルフが死んだのはきっと、ナンシーとの面会がきっかけじゃない。面談で思い出された幼少期の記憶に、ナンシーとの面会で芽生えてしまった罪悪感、そして、その罪悪感を解消しようと縋った先のアニータに「さようなら」って言われたからだ。

「私と面会したから、ラルフは死んでしまったの?」と問うナンシーに「そうだと思います」なんて、普通の神経を持っている人間の答えじゃない。自分が罪を犯したのだと自覚しながら、その罪を隠して人間関係を続け、隠れたところで発狂しながら精神科医を続ける。まともじゃない。でも、自分が「まとも」ではなくなったと自覚しているようで理解はしていないのだと思う。

アニータは、人間の本性は善であり、悪は後天的なものであると信じている。いわば、性善説論者※6だ。そして、自分の信念を守るためにも、全ての罪は後天的事象に起因するべきだと考えている。ラルフをはじめとする連続殺人鬼が罪を犯すのは、精神的・身体的虐待による脳の損傷の為であり、脳の損傷による疾病であると。

「悪意による犯罪を罪とするなら、疾病による犯罪は症状である」と主張するアニータはきっと、「好意による不倫は純愛である」と思いたいんだ。けれどそんなこと、法律は許さない。頭のいい彼女は、そのことをよくわかっている。だから苦しんでいる。苦しみに耐えられないから、許されたいと思っている。

ラルフ

気の毒だなとは思う。親からの愛を知らず、理不尽な虐待にさらされ、一般的な知能を持っていながら人間として重要な部分が欠落しているから、まともな社会生活が送れない。確かに、これはラルフのせいじゃない。アニータの言う通り「あなたにはどうしようもなかった」部分で、ラルフの人生は壊された。そこに同情はする。でもかわいそうだとは思わない。

ラルフは、自分の価値観だけで生きている。「こんにちは」とあいさつしたら「こんにちは」と返されなければならない。誘ったらついてくるのが普通だし、飽きたら殺せばいいと思ってる。そのくせ、世の中は全て清潔でなければならない。これが当たり前だから、罪悪感なんてこれっぽっちもない。

例えこれが、虐待の後遺症による脳の欠陥に理由があろうが、まっとうな幼少期を過ごしてこなかったための屈折した感情であろうが、自分で選択して人を殺したことは事実だ。善悪の判断ができなかったとしても、自分の頭の中で、被害者の子供たちが笑顔でついてきて楽しんでいたと変換されていたとしても、罪は罪だ。

ラルフは、長く生きてはいけない人だったんだと思う。もちろん、すべての人に生存権はある。でも、生き続けることで不幸になり続けると決定されているなら、短い人生であればあるほど、その人の幸福度は高く保たれるんじゃないかなとも考えられるのではないか?

ナンシーとの面会で、ラルフに初めて罪悪感が生まれた。自らが手にかけた子供は、立派に10年間を生き、家族に囲まれて大切に育てられた一人の人間であったのだと知った。その未来を奪ったことの、罪の重さを知った。だから、人生最大の心の痛みを感じて、どうしようもなく苦しんだのだと思う。

では、ラルフが死を選んだのは良心の呵責によるものなのだろうか?ローナに申し訳ないと思ったから死んだのだろうか?

私はそうは思わない。ラルフは、解放されたかっただけだ。自らの過去からも、良心の痛みからも、すべてから解放されたくて死んだんだ。痛みに耐えられなかっただけだ。

自殺は償いじゃない。裁判が終了して、刑が定まっているのなら、それ以外のどんなことをしたって司法上の償いにはならない。例え死刑を宣告されていたとして、刑が執行されるまでに勝手に死ぬことはつまり、「死刑の失敗」になる。良心の呵責に苦しんでいるからといって、自殺することは許されない。その生命が自然な死を迎えるまでずっと、塀の中で罪と向き合うことがラルフに課せられた罰なのだから。それでも、ラルフは死んだ。自分の価値観で生き、自分の価値観で死んだ。

エゴイズム

三人ともに言える。エゴだよ、それは。

エゴイズム、日本語に訳せば利己主義。これを描いた作品で、多くの人がぱっと思いつくのは、夏目漱石の『こころ』※7だと思う。この作品では、自分の感情を優先したがために、間接的に親友「K」を殺してしまった「先生」が描かれている。自分の恋を叶えるためにKを出し抜き、さらには「精神的に向上心のないものはばかだ」と言い放つ。自分を優先させたがために意図してKを傷つけ、意図せず自死に追い込んでしまった先生も、最後は自ら死を選ぶ。行き過ぎたエゴイズムが、破滅への道に成り得るということを表している作品だ。

『凍える』も、これに似ていると思う。

利己心を持たない人間などいない。誰だって、自分のために生きてしまう瞬間がある。自分のために生きられない人間は、人生を歩んでいけないからだ。しかし、だからと言って、他人の領域を侵害するほどの利己心を剝き出しにしていいという話ではない。その感覚を、人は人間関係の中から学んでいくのではないだろうか?人間は「社会的動物」であるのだから。

今回のこの『凍える』の悲劇は、三つのエゴイズムがぶつかってしまったことにある。いや、悲劇とは言い切れないかもしれない。ある意味で、ナンシーとラフルは解放された。私は、自分勝手に解放されたナンシーもラルフも、解放されようとしているアニータも許せないけれど、それは理想論だ。本当は、「許す」「許さない」なんて議論は存在しないと、それが人間の仕方のない部分であるとわかってはいる。

海の底が冷たいように、きっと人間の一番深い部分はすごく冷たいのだと思う。それこそ、「凍える」ほどに。理論武装されたこの作品から、終始、凍えるほどの恐怖を感じたのは、このような人間の一番深い部分に触れ続けていたからだと思う。

イングリッド

ナンシーの長女であるイングリッド。きっと彼女が、この作品の良心で、成長していく精神なのだと思う。凍えたように止まってしまった20年の時の流れを、彼女がタバコを吸い、お酒を飲み、チベットに旅立つ一連の流れから感じることができた。余談だが、イングリッドが「旅に出る。東へ行く」と言ったとき、ナンシーが「東って?インドにでも行くの?」と答えたことに、ひどく「大英帝国」を感じた。いつまでも「イギリスの東の果て」は、インドなんだろうなぁと。

イングリッドの存在は、時の流れを感じるためのものではない。

ローナのことにとりつかれて以来20年、ナンシーはイングランドを放ったらかしにしていた。これはネグレクトではないだろうか?立派な虐待だ。

では、ネグレクトされたイングリッドは殺人鬼になったか?ラルフのように、正常なコミュニケーションが取れない、欠落した人間に成長したか?
答えはNoだ。

成長したイングリッドは自分の足で立って、自分の考えでチベットに行き、教えに目覚めた。そして、自分の信念に従って「ラルフを許すべきだ」と言った。立派な女性になった。母親からの関心が向けられることなく育ち、父親は不倫をしている。そんな崩壊した家庭で育っても、人間になれるんだと、そう読み取れる。
これを踏まえると、やはりアニータの理論は破綻してる。

道に迷い、紆余曲折を経て、イングリッドは自分の人生を歩けるようになった。考えを押し付けることもせず、無理に解放されようともせず、自分を生きている。「イングリッド」という人間は、ナンシーの目線からしか語られないが、それでも、この作品の良心たりえると、私は思う。

 

『ゆるす』こと

「悪意による犯罪を罪とするなら、疾病による犯罪は症状である」なんて、私には納得できない。一貫して、ラルフは死ぬべき人間であると主張する。しかし、これを「赦す」のがヨーロッパの文脈なのだろう。キリスト教は「赦しの宗教」だから。

現在、ヨーロッパでもアメリカでも、熱心にキリスト教を信仰してる人は少数だ。1852年に40%だったイギリスにおける教会出席率も、2006年には6.3%※8となっている。ナンシーもアニータも、もちろんラルフだって、神を信じてなんかいない。
けれどもやはり、文化の根底に流れる概念はそう簡単に変わらない。いわゆる「基層文化」なのだと思う。不確かなものではあるけれど、ないとは言いきれない。

アニータは性善説にすがっているけれど、聖書は性悪説で始まる。人類は、アダムとイブが犯した「原罪」を受け継いでいると考えられるから。しかしその原罪は、キリストが磔になることで神からゆるされた。ものすごく簡単に言えば、このような流れだ。

旧約聖書に於いて、人類最初の殺人を犯したカインに対し、神は呪いを与えたが、復讐されることは禁じた。「だれでもカインを殺すものは七倍の復讐を受けるでしょう」※9と。キリストもこう言っている「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」※10と。

「許す」と「赦す」は違う。「許す」と言うのは「相手の希望や要求を受け入れて、許可する」ことであり、「赦す」というのは「相手のミスや罪などを責めずに、なかったことにする」ことである。神に赦されるためには、他人を赦さなければならない。「解放されること=赦すこと」なのだと思う。

自分のために誰かをゆるした、誰かに赦されようとした、このことをどのように捉えるかは、欧米人と日本人では大きく異なってくるかもしれない。少なくとも私は、このことを、とてもわがままなことだと思ってしまう。

死刑について

死んで詫びる。死を以て贖う。腹を切る。
長らく美化され続けてきた「武士道」を、きっと日本人は信仰している。新渡戸稲造の『武士道』や山本常朝の『葉隠』を読んだことのない日本人が大半であるであろうにも拘わらず、なんとなく想像している「武士道」に縛られている。「上の言うことは絶対である」「自己を優先することはわがままである」「どんなことがあろうと、なにかに殉ずるべきである」と。ブラック企業のような状態だけれど、このように、きっと日本人は「利己的である」ことを排除しようとする。

目には目を歯には歯を、罪には罰を。同害復讐の考えは単純でわかりやすい。「殺人者は、被害者遺族の為にも死刑になるべきだ。法律が、遺族に代わって復讐をするべきだ」という考えで死刑を肯定している人も少なくないのではないか?それも一理ある。けれど間違っていると、私は思う。

日本国憲法第14条第一項に「すべて国民は、法の下で平等であって…(以下略)」と明記されている。三権分立の基本のもと、司法は政治とも分立しているので、「裁判による復讐は、政治的解決」であることは、建前上あり得ない。ドイツの哲学者カントは言う、「刑罰は被害者の感情に基づくものではない。犯罪と言うものは公共に対する違反であり、刑罰は公共体の正義に基づくものである」※11と。

しかし、それでは納得できない人も大勢であるとおもう。つまり、犯罪者は必ず反省しなければならず、その罪を償う必要があるという考えだ。この時、日本人は特に、「死=最大限の償い」という図式が、頭の片隅で首をもたげるのだと思う。「なにか罪を犯しました。それは大変なことです。取り返しのつかないことをしてしまった。ごめんなさい。死んで詫びます。」この図式になることを理想としているのではないかと。

罰を受けることは、償いの姿勢であるべきだ。だから私には、ナンシーとアニータの気持ちがわからない。被害者遺族としてナンシーが赦したとしても、ラルフは刑罰を受けるべきだ。アニータの、「疾病による犯罪は症状」なんて理論も通用しない。その人が病気であることと、社会に対する罪を犯したことは分けて考えられるべきだ。先に述べたように、ラルフにも自殺する権利はない。刑を受けることが罰であり、自分で死んでしまうことは、償いから逃げることだ。

と、ここまでさまざま論じてきたが、これはあくまでも21年間日本で生きてきた私の考えであり、そもそも私は少々、封建的思想に偏っている部分もあるので、特にこの段落は、話半分で聞いて欲しい。

最後に

『凍える』は、非常に難しい作品だ。特にラルフを演じる坂本くんは、絶対に共感できない人物を演じることになる。現実では、ほとんど起こりえない物語を、実際には共感できない人物を、頑張って演じるしかない。とんでもない作品だ。

この考察に関しても、「この小娘は、長々と何も適当なことを言っているんだ?」と思われる方もいらっしゃるだろうし、「全く分からない。私はもっと違うことを考えた」と思われる方もいらっしゃるだろう。観た人の十人が十人、別の感想を抱くに違いない。私の説の、特にアニータの部分。「ラルフが自殺したのはアニータのせい」というのは、議論が分かれるのではないだろうか。パンフレットには、「ナンシーと面会したことが原因で自殺した。」ととれる言葉がたくさん登場する。それでも私は、ラルフを間接的に殺したのはアニータだと思っている。そう言うことだ。

物語の終わり、目の前が開けて暖かい光にあふれる上手側と、全く光が届かず冷たいままの下手側の対比が美しかった。光りある方で、すべてを受け入れたように泰然としているナンシーに対し、自分がどうあるべきかを見つけられていないアニータの対比は悲しかった。そのような光景をもって、最後のセリフが終わり、暗転し、カーテンコールに移行した時、私の中に残った感想は「この人たちは、なんてわがままな人たちなのだろう」と言うものであった。だから、この作品の主題は「エゴイズム」であると思った。他の方の感想を読めば、もっといろんな意見であふれていると思う。そうであっても、今まで書き綴ってきたことが現段階での私の考えだ。

とても深い作品に巡り合えた。後学のためにも有意義な観劇体験だった。この『凍える』で、年内のV6関連の現場参戦は終わる。来年も、今年のようにたくさんの作品に触れられる一年にしたい。

 

注釈

※1 河竹黙阿弥(1816年~1893年)江戸時代の歌舞伎狂言作家。代表作に『三人吉三』『青砥稿花紅彩画』(通称『弁天小僧』)など。

歌舞伎事典:河竹黙阿弥|文化デジタルライブラリー

※2 ここで言う『The last 5 years』は2021年の新演出版ではなく旧演出版。2005年初演の山本耕史さんがジェイミーを演じてたもののことを指す。私も実際には見たことがないし、TVでちらっと見たことがあるだけのものではあるが印象に残っている。以下のリンクは2021年の新演出版。

ミュージカル 「The Last 5 Years」公式サイト

※3 本水とは舞台上で用いられる本物の水のこと。

歌舞伎事典:本水|文化デジタルライブラリー

※4 ケレンとは大道具小道具の仕掛けを使った、観客を驚かせるような演出のこと。

歌舞伎事典:ケレン|文化デジタルライブラリー

※5 狐忠信(源九郎狐)は歌舞伎の大人気狂言義経千本桜』に登場する人間に化けた狐。奇想天外な動きを見せる四段目最後の「川連法眼館の場」が有名。こればっかりは、百聞は一見に如かず。劇場へどうぞ。

義経千本桜|文化デジタルライブラリー

※6 性善説と言うのは簡単に言えば「元来備わっている『善』の要素は、努力によって開花する。」という説。努力なくしてその『善』を開花させることはできないという教えなので、人間は無条件に『善』が開花していると捉えているものではない。(筆者調べ)

※7 『こころ』は上「先生と私」中「両親とわたし」下「先生と遺書」の三つから構成されており、ここでは特に下の「先生と遺書」に言及するものとする。

※8 参照:伊藤雅之、「21世紀西ヨーロッパでの世俗化と再聖化」

https://www.iisr.jp/journal/journal2015/P249-P269.pdf

※9 引用:旧約聖書 創世記4:15

※10 引用:新約聖書 マタイによる福音書6:14、6:15

※11 参照:北尾宏之、「カントの刑罰論」

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kitao.pdf

 

バイ・バイ・バーディー 2回目の衝撃

2022年11月5日『バイ・バイ・バーディー』17時30分開演

 

初見直後の感想はこちらからどうぞ

aoino-sabu.hatenablog.com

 

で…ですね……いやぁ………正直めちゃくちゃびっくりしました………だって格段に上手になっていたんだもの!!!

 

「わぁこのジェンヌさんまた歌がうまくなってる!」と感動したり「また一段と型がしっかり身についてきたな……」と将来が楽しみになったり「前とは違うアドリブで来た!」と感心したりと、公演中のカンパニーの成長は、観劇の醍醐味の一つだ。だから、同じ作品でも何度も観たいし、進歩する舞台を肌で感じることは最大の楽しみともいえる。だが、それを踏まえた上でも、バイ・バイ・バーディー(以下バイバイ)の変化はすさまじかった。まるで別物に感じられるほど、すさまじい進化だった。

最初にそれを感じたのは、アルバートのソロである『笑うだけで』を聴いた時だ。

洗われたような感覚を覚えた。泣いた。しっかりと納まる所に納まっている音を聴いた時、探し物が見つかったんだと思った。ずっと見たかった長野博がそこにいた。見直した。惚れ直した。10月22日に見た『バイ・バイ・バーディー』は何だったのかと思うほど、完成されたミュージカルがそこにあった。

音響の違いがこの差を生んでいるのかと、パッと思い浮かんだのはそんな愚かな考えだった。森ノ宮ピロティホールの音響と、このカンパニーとの相性が抜群であったのかと。しかし比較対象は、劇団四季の外箱公演も宝塚歌劇団の東上公演も催される、天下のKAAT神奈川芸術劇場だ。音響にそこまでの差が出るとは思えない。

カンパニーの実力が、飛躍的に向上したんだ……と気づいた時、震えた。

日本初演で、ほぼ初顔合わせのカンパニー。公演のはじめの方がフワフワしてしまうのは、まぁ、わかる。分かるけれど、初見の私は、そのフワフワとした…少し具体的に言えば、ダンスの完成度は高いものの、歌がそこに着いてきていないアンバランスさ、のようなものが、バイバイの完成形でカンパニーの限界値かと思った。見誤っていた。

ダンスショーだった作品が、ミュージカルに化けた。

ぐんぐん伸びて、想像以上の成長を見せてくれたバイバイが、大好きだ。ぜひ同じメンバーで再演してほしい。だってきっと、まだまだ伸びる。

ただ、大阪公演の完成度を目の当たりにすると、やはり最初からその完成度に持ってきてほしいと思わずには居られない。その点少し惜しいなと感じてしまうが、最終的な『バイ・バイ・バーディー』はまさに傑作と言っても過言ではないものであったし、初日から千秋楽までをなべて考えても、良作と言えるだろう。

その、飛躍的な成長を見せるカンパニーの座長である長野くんの声。少しハスキーで、柔らかくて、優しい声が私は大好きだが、ミュージカルに向いてるかと問われたらそうではない。それでも、きちんとハマれば綺麗だし、聞けば聞くほどクセになる。根底にあるアイドルとしての表現力と演技力で、歌声に色を出すこともできる。

近年稀に見るくそ野郎ことアルバートが、そのダメ男っぷりを存分に発揮していても、それがコメディとして成立し、お客さんも大いに笑えたのは、長野くんが演じていたからこそだと思う。それに、公演中一番伸びているのは多分、長野くんだ。ミュージカルの型に、パシッとハマるまでに時間はかかるかもしれないが、ハマってしまえばぐんぐん伸びるし、しっかりと魅せてくれる。あぁ好きだ。大好きだ。

I love you♪首ったけよ♪はかりきれないほど愛してる♪(『ガイズ&ドールズ』A Bushel and a Peckより)

と、脳内のアデレイドが歌い出した。

大好きよったらあんただけ♪と歌うアデレイドを、2002年『ガイズ&ドールズ』月組公演で演じていた霧矢大夢さん(そう言えばアデレイドも、婚約者に結婚を14年待たれている役だな…)は、やはりさすがの風格だった。宝塚時代も評価されていた素晴らしい歌声で、カンパニーを引っ張っていた。ド真ん中の歌声に、確かな演技力、そしてバレエに裏付けされた美しいダンスとスタイル。男役時代は低く感じた身長も、女優として活躍する現在では気にならない、むしろ武器だ。

そんな霧矢さんと同時代の宝塚を生きた樹里咲穂さんも、エトワールに抜擢されるほど認められていた歌声そのままに、’60年代のアメリカのお母さんを演じきっていた。

マカフィー家は、樹里さんと今井さんを筆頭に歌が安定していた印象だ。歌が上手い方々に引っ張られて、全体の歌唱力も上がっている。カンパニーからそんな雰囲気が感じられた。

物語のカギを握るキム・マカフィー役の日高麻鈴さんは、伸びしろがたっぷりある。今でも、澄んだ歌声を持っていて、初めて聞いた時は神田沙也加さんのような歌声だなと思うほどだった。少し不安定な所がある者の、大人になりたい子供の精一杯を表現できていた。

スイートアップルの少年少女たちの歌声も、見違えるほど進化している。

神奈川公演の時は、まだしっかり音になじんでおらず、せっかくの男声と女声もなんだかうわついて感じられたが、大阪公演では地に足ついた歌声になっていた。女声の美しいソプラノと、男声の耳心地のいいテノールの対比が綺麗で聞きほれた。もちろん、ハーモニーも秀逸だ。

発展途上の歌声を完成され安定した歌声で引っ張っていく。バイバイのカンパニーには、そんな構造があるように思える。

物語に関する考察は前回のブログに書いた通りである。

今回もやっぱり、メイのパワフルさに会場は爆笑に包まれたけれど、私は笑えない。あんな親がいたらたまったもんじゃない。この先もきっと、アルバートはメイの呪いから解かれることは無いのだろうし、そんなアルバートを見捨てられないローズもかわいそうだ。もしこの先、アルバートとローズに子供ができて、その子に対してアルバートが「お母さんが第一。親の言うことは絶対」なんて教育をしようとする未来が見える。メイの罪は重いなぁなんて、描かれてもいない未来を思ってまたメイが嫌いになる。…多分、アルバートの暴走はローズがきっちり止めるんだろうけど。

1つ付け加えることがあるとするなら、バイバイのテーマの一つに『ワン・ラスト・キス』があることだ。物語の主軸となる曲のタイトルということだけでなく、いろいろな意味で鍵になっていると思う。最後の最後に、アルバートがローズにする口づけがその象徴ではないだろうか。

楽しいミュージカルだった。思想の偏りや、思春期特有の親とのぶつかり合いが描かれているものの、誰も死なないし誰も不幸にならない。舞台が踊っているようににぎやかで、暗い部分も全部笑えるくらい明るく描かれていた。コメディ要素にあふれている中でも、しっかりと伝わってくる社会風刺はさすがブロードウェイと言いたい。カラフルで華やかで、何度も見たいなと思える作品だった。

きっと、再演されたらもっと良くなる、もっといいものを見せてくれる。そう期待できる作品でもあった。できれば、同じキャストがいい。今回の出演された方の次回作にも期待したい。

あ~!いいものに出会えたなぁ…!

 

バイ・バイ・バーディー 初見感想

2022年10月22日 『バイ・バイ・バーディー』

KAAT神奈川芸術劇場17時30分開演

 

 

私はミュージカルが好きだ。舞台が好きだ。小さい頃からお母さんに連れ回され、おばあちゃんに手を引かれ、たくさんの舞台を観てきた観劇オタクだ。大学生となった今ではホイホイ遠征するし、観られなかったら時間とお金が許す限り配信を買う。それでも、無理して遠征したり、お金を払って観た配信の全部が全部名作で、全部が全部にハマったかと言うとそうでは無い。

舞台にも当たりハズレがある。グッと引き込まれて、帰ってこられなくなるくらいのものもあれば、スンッと1歩引いた目で見てしまう舞台もある。こればっかりは、好みの問題でもあるので難しいところではある。人それぞれに基準があって、人それぞれに判断できるものだ。

正直に言う。私にバイバイはハマらなかった。

世界で1番大好きな自担の初主演ミュージカルでも、ハマらなかった。とは言え、面白かったし楽しかったのは事実だ。ただ、ド真ん中のミュージカルと言うには今1歩足りない。そんな印象だ。

ミュージカルにはミュージカルの発声があり、歌い方がある。それは劇団によって違ったりもするが、根本は同じだと私は思う。

「マイクを通して真っ直ぐに伸び、会場を包み込むように響く澄んだ声」これを、私は勝手に、「ド真ん中の歌声」と呼んでる。舞台で発された声が真っ直ぐ観客一人一人に届くような声、聞いていて心地の良い安定した声……バイバイには「ド真ん中の歌声」を持つ人が少なかった。

これは、発声の問題なので、決して歌の善し悪しについて言及しているものでは無い。カンパニーのみなさんは、全員歌が上手かった。

ただ、それとミュージカル向きの歌声か否かは別だ。私には、バイバイを王道のミュージカルであるとは言えない。

しかし反面、ダンスはとても良かった。全員がきっちり踊れるし、魅せ方を知っている。バレエにしろジャズダンスにしろ、型は違えど『魅せる』と言う1点において共通するものであるので、その一流が集まれば必然的に良いものが生まれる。全編通して、舞台が踊っているような作品だった。

だから『バイ・バイ・バーディー』は、ミュージカルと言うよりも、しっかりとしたストーリーのあるダンスショーであると感じた。

主人公のアルバートは、情けない男だ。それはもう、引くほど情けない。大半の女性が、絶対に結婚したくないというであろうタイプの男である。優柔不断と言えば聞こえはいいが、実際は二枚舌1歩手前の骨なしマザコン野郎と言っても過言では無い(過言です)。ほぼ終始、しゃんとしろよ!はっきりものを言え!大人の男だろ!?と思わせてくれた長野くんはすごい。舞台上には長野博ではなく、アルバート・ピーターソンがいた。近年稀に見るヘタレ野郎だったが、客にそういう印象を与えることは難しい。どうしたって愛嬌が残ってしまったり、振り切れなかったりするからだ。その点、長野くんは全部をクリアして来た。さすが私の自担(贔屓目)。
相手役のローズはと言うと、男勝りで快活で仕事の出来る人ではあるけど、男を見る目と自制心がなく感情的な、典型的なアメリカの女の人。とにかく綺麗だが、特大の刺がある。まさにローズ、薔薇の花のような女性だ。

いやぁ……この2人が上手くいくとは思えない。うん。でも、本人が愛し合ってるからいいんだけど…いいんだけどねぇ………結婚したって、毎日ローズのイライラが爆発して、3ヶ月に1回は家出騒動が起きる結婚生活になる、に100万ペソ()

キーマンであるコンバット・バーディーは、天性のロックスター。だけどこいつはダメだ。人間が成ってない。破天荒でめちゃくちゃで、もうどうしようもないけどかっこいい。エルヴィス・プレスリーの完全コピーで笑ってしまった。

物語の舞台となる田舎町には、在りし日の理想的なアメリカが詰まっている。そこにいるティーンエイジャー達はすごく子供で、無邪気で、可愛らしい。

本当にドタバタした、笑えるどコメディーだけど、要所要所に社会問題が入り込んでくる。あと、欧米でよく見られる「読書階級の常識」も盛りだくさんだった。
例えば、1幕でハリー・マカフィーが「マグナカルタは破壊された!暴君ネロの復活だ!ローマを燃やすぞ!(要約)」って言ってたのは多分、ローマを火の海にしたローマ帝国5代皇帝のネロのことだよなぁとか、同じくハリーの「俺が戦争に行ったのは18の時だ!」とかも、ハリーの言う「戦争」は第二次世界大戦のことで、今回徴兵されるコンラッドが行くのはベトナム戦争だってことの違いを説明無しで理解しなければならないこと、アルバートのお母さんが、極端なルッキズムと若干のレイシストである事とか。やっぱそこがブロードウェイ直輸入なんだなと感じた。
そう、バイバイは、良くも悪くも典型的ブロードウェイミュージカルなんだと思う。ブロードウェイは、それが喜劇だろうが悲劇だろうが、隙あらば社会問題を盛り込んで来ようとするから、私には、そこが少し苦手だったりする。日本はそこまで人種とか宗教とか意識することなく生活できる国だけど、アメリカは人種のるつぼだ。多分、本家の『Bye Bye Birdie』でローズ役の人はヒスパニック系の女優さんになってると思う。
目で見たり、肌で感じたりする文化の違いがあるまま脚本だけ輸入するから、どうしても想像力で補わなきゃいけない。これはどんな海外ミュージカルにも言えることだ。
そして、こういった齟齬は舞台設定にも影響すると思う。そもそも馴染みのないアメリカ文化で、全く知らない時代のスーパースターを題材にされるとなると、ストーリーがものすごく遠く感じる。

私は『監獄ロック』などでエルヴィス・プレスリーを知っていたが、知らないって人もいるんじゃないだろうか?’60年代を舞台とした作品によく出てくる『エドサリヴァン・ショー』もまた然り。日本の『8時だョ!全員集合』とか『シャボン玉ホリデー』的なものだと理解しているが、日本の番組で例えたってやっぱり遠く感じる。で何が言いたいかって言うと、そういう馴染みの薄い題材を輸入してくるからには、何も知らない他文化圏の人間(つまりここで言う日本人)にも共感を呼ぶような説得力を持たせなければならないということ。

この点、バイバイは及第点を超えていると思う。特に、エルヴィス・プレスリーの解像度が高かった。「コンラッド・バーディー」という役名であったものの、エルヴィス・プレスリーそのものだった。くねくねした腰の動きや歌い方の癖、ナルシシスト全開な様子など。まるで本人だ。演じている松下さんの、ド真ん中の歌声も好きだ。バイバイは、エルヴィス……もとい、コンラッドがいなければ始まらない。加えて、思春期を迎えるティーンエイジャー達の万国全世代共通の感覚を上手く描けていたから、話に無理が無く楽しめた。コンラッド・バーディーに熱狂する少女たちの姿に、V6ひいては長野博に発狂する自分を見て、共感の嵐だった。スイートアップルの子供たちは、自分だけが主人公の自分の人生を謳歌していた。良いことだ。羨ましい。
バイバイの主人公はアルバートだ。けれど、ローズの登場が多くてソロも多かった。これは、ローズを通してアルバートを客観的に描くということなんだと思う。霧矢さんのキャスティングは大正解だ。多分、霧矢さんがアルバートをやっても、長野くんがローズでも映えた気がする(byヅカオタ脳)OZの時も思ったけど、やっぽり元トップスターは誰かを従えて真ん中で踊るのが良く似合う。宝塚で培われた踊りと歌声は、本物のミュージカルスターのそれだった。
そう、ダンスショーのようだったからこそ、演者さんの基礎が何なのががはっきりした。例えば、ターンひとつとっても。体全体をねじるようにしてコンパクトにシュっときめるジャニーズのターンは、ジャズやPOPを基礎としていて、顔を残すように素早くパッと周りの空気ごと回転させるように宝塚のターンは、バレエを基礎としてるんだなって如実に現れてた。発声とか、演技も同じことが言える。舞台畑なのか映像畑なのかはどう演技するかに現れるし、ユニゾンで歌うことに慣れているのかソロで歌うことに慣れているのかでも違いがでる。だから、劇団単位とか事務所単位とか一門単位の舞台もいいけど、雑多なメンバーが集まるカンパニーのミュージカルは楽しいんだ。

余談だが、個人的に、最近は歌舞伎や宝塚ばっかり見ていたので、純粋な男女が入り混じる舞台を久しぶりに見た。男が演じる女も、女が演じる男も、両方が両方の究極の理想が詰まっているから、当然夢のような話だし、夢のような理想できな男と女がそこに現れる。けれど、男が男を演じて、女が女を演じる舞台では、極端な理想が押し込まれていない分すごく自然なお芝居になっていると感じた。どちらも好きだ。どっちにも良さがあるので、私は観劇をやめられない。

結末的には大団円…!と言うより、アルバートが思春期の時に乗り越えるべきだった課題をやっと乗り越えたという感じ。

スイートアップルに住むティーンエイジャー達は、思春期に少年少女から大人に変わろうとしていた。いつまでも子供でいて欲しいと望む親たちの理想をはねのけて、自分で恋をして、自分で変わろうとしていた。でもアルバートは、会社を経営していても教師になれるくらいの頭を持っていても、母親の呪縛から逃れられなかった。メイは、子供思いの母親なんかじゃない。息子を自分の所有物だと思っている、ただの毒親だ。いい年をして、公的にも私的にも母親を「ママ」と呼び、息子を「坊や」と呼ぶ親子関係が健全なはずがない。とっくに自立しているローズがアルバートにイライラするのは当然だし、母親に雁字搦めにされているアルバートが頓珍漢なことをしてしまうのもしょうがない。それでも最後の最後で母親を振り切れたアルバートは、立派だと思う。

この話は、自由奔放なロックスターに振り回されるマネージャーと、巻き込まれた田舎町の物語であると同時に、親から独立する「子供」の話だ。そのどちらにも「破天荒で何のしがらみもない、自由の象徴」であるロックスター・コンラッドが必要なんだ。自由が過ぎて縛られることになったコンラッドと、しがらみから解放される「子供」の対比は美しい。

だからやっぱりバイバイは、『さよならバーディー』というタイトルで、ローズの出番が多くて、マカフィー家が話題の中心だけど、アルバートのお話なんだ。

 

ところで、ですよ……問題は。ラストシーンなんですよ!!!問題は!!!

聞いてない!!!!聞いてないよ私は!!!キスシーンがあるなんて聞いてないよ!!!!!!!!今まで長々と語ってきましたけどね!ええ!全っっ部吹っ飛びました!分かりますか??時が止まった感覚が!!自担が!目の前で、元宝塚トップスターにキスしてんですよ!!!!
私はリアコじゃないんで、リアコでは無いけどさすがにぶっ飛んだよね……ええ、白状しましょう。きりやんさんにめちゃくちゃ嫉妬しました!!!変な気持ちになっちゃったじゃん!!ショックでちょっと泣いたよ!!!うわぁぁぁ!!!!!

と、取り乱しました……すみません。

アルバートがローズにプロポーズするシーン。片膝をついて指輪を差し出し、「愛しているから結婚してほしい」と言う。少女漫画から抜け出て来たのかと思った。世界で一番好みの男が、夢みたいなことしてる。私はオペラグラスを、眼球がめり込むんじゃないかって勢いで覗き込んだ。ら、キスしてた。チュッて。軽いバードキス。死んだ。衝撃で手が震えた。雷に打たれたのかと思った。

長野くんのキスシーンなんて何度も見てる。最初の失恋がレナとダイゴのキスだったし、『彼らを見ればわかること』に至ってはベッドシーンまであった。でも、それとこれとは別なんだ。生で見る舞台と映像には雲泥の差がある。OZでもキスシーンあっただろ、とも思ったけど、やっぱり違う。あと、先にも書いた通り、最近は宝塚と歌舞伎しか見てなかったので余計に衝撃的だった。宝塚のキスシーンは顔を近づけるだけの「ふり」だし、歌舞伎に関してはそもそも基本的にキスシーンはほとんどない。いやぁビビった……長野くんも男の人だったんだって改めて意識してしまった……本当に、最後の最後で全部持ってかれた。死んでしまうよこんなん。席が遠かったのが逆に救いだった。オペラグラスを挟んでもあの衝撃……自慢じゃないが、肉眼で直視できる自信がない。叫ばなかった私を褒めて欲しい。

フォエプラ以来4ヶ月ぶりに生で見る長野くんは相変わらずカッコよくて、完璧なEラインは健在で、やっぱり私が世界で一番好きなのは長野博なんだなって改めて思えた。へたれを演じさせたら天下一品だってのは、発見だったなぁ…やっぱり演技うまいよ、ひろし。
バイバイは、良くも悪くも王道のブロードウェイ作品だけど、ミュージカルと言うよりはダンスショーだった。初見でガツンと殴られるような衝撃も、食いつくようにまた見たいと思うような作品ではなかったけれど、後からゆっくりじんわりと楽しかったと思い出せる、もう一度今度は細部まで詳しく見てみようと思える作品だった。暖かい温泉のような作品だった。次に行く大阪公演が、すごく楽しみになった。

確かにバイバイは私にとって、パシッとハマる作品ではなかった。でも嫌いなわけでも、この作品が駄作なわけでもない。むしろ良作だ。ダンスシーンは華やかで魅力的だった。

あぁ、そうだ、楽しかったんだ……

そう感じられる舞台だった。

 

ここまで長々としたまとまりのない文書を読んでくださりありがとうございます。以上、初見直後の殴り書きでした!