あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

シャイロックの子供たち(小説) 感想

シャイロックの子供たち』 作・池井戸潤

新潮文庫 2008年11月10日

 

109日から井ノ原快彦さん主演WOWOWドラマ『シャイロックの子供たち』が放送される。松竹での映画かも決まった。私はV6のファンなのでもちろんみるけれど、最初は読むつもりはなかった。ただ、読了後の世界にいる友達がとても楽しそうに考察している姿を見て、本を買った。そして買ったその日に読み終えた。読み始めたら止まらない、読みやすい本だったし何より面白かったからだ。

 

以下、ネタバレを含む考察と感想を書いていく。

 

 

【感想】

最初は、オムニバスストーリーかなっと思った。副支店長・古川の話や、融資に苦心する若手の話が世界観の繋がりとともり展開されていくが、語り手が一定ではない。それに、ドラマや映画になるはずの話は3話から。

これはドラマや映画が脚色しすぎなのかな?とまで思ったがうじゃない。これは紛れもなくしがない窓際銀行員・西木雅博の話だ。

シャイロック。彼はシェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』に登場する悪役だ。主人公・アントーニオを逆恨みして高利貸しをし、払えなければ肉1ポンドを貰うと突きつけるも、その利を追いかけ続けたばっかりに身を滅ぼす。ただ、その姿は金貸しでしか生きていけなかったユダヤ人の背景や、娘にも愛想を尽かされて駆け落ちされたり、改宗させられてしまったりと色々考えさせられるところもあるし、私個人的にはベニスの商人いおいてシャイロックに対してはかなり好意的な印象を持っているが、この小説で描かれている「シャイロック」は「悪名高い高利貸し」という、世間一般的な考えであると思うので、そちらに合わせて読み進めた。

ヴェニスの商人』でシャイロックは自分の子供にも見限られて最後は1人になる。これは斜陽になりつつある『銀行』をシャイロック、そこで働きつつも疑問を感じたり『銀行』に対する裏切を行う『行員』をシャイロックの子供と例えてるのかなとも、最初は自ら身を滅ぼしながらも最後まで自分の信念に沿った本家シャイロックの亜種って意味かなぁとも思っていたが、最後まで読んでこれは違う、と考えを修正した。

1話から10話まで、一見すると直接関係ないかなと思われる話ですら全て伏線になってるのがとても衝撃で、全ての繋がりが頭の中で揃った時、パズルのピースがピッタリと埋まった時のような気持ちがした。

 

【1話】

これは銀行に対する不信をしっかり体現し、そして自らの身を1番大切に守った人の話だ。

小山さんはパッと見は不甲斐ない新人だけど、その実1番先見の明があるし、いちばん健全だと思う。頭の固い古川さんといい対比になってるし、この後出てくる「不信を感じつつも銀行でしか生きていけない人」との対比にもなってる。

自分の出世にしか興味がなく、部下を奴隷のように扱う古い銀行体質が染み付いたままで、自分が茹でガエルになってることにすら気づかない古川と、あくまでも自分の確固たる意志の元行動していた小山のどちらが正しいのかは、銀行の立場に立つかはたまた個人の立場に立つかで変わってくる。

しかし、本質はそこじゃない。1話にこの話を持ってくることで、読者は無意識に「小山さん」のケースを土台で考えるし、ステレオタイプの銀行員がどのようなものかを印象付けられ、長原支店の癌がどこにあるかを知ることが出来る。

 

【2話】

1話とは反対に、銀行に全てをかけて銀行に報われた人の話だ。海外勤務を希望しながらも自らは出世街道から外れかけている、背水の陣のバンカー・友野が、唯一の大口融資を取付けられるか否かが描かれている。追い詰められて追い詰められて、最後に報われる姿があって良かった。

これは後の遠藤さんのケースとのいい対比になるし、銀行の頭の硬さや長原支店の目先の利益に盲目になる、まさに「シャイロック」と同じ状況を体現してる。

ここでは融資をする時に必要な稟議書を用意するのがどれほど大変なことか、家庭を背負ったバンカーがどれほど追い詰められているかがよく描かれており、読者はまた一層「銀行」に対する印象を操作されていく。

 

【3話】

ここから『100万円紛失事件』が始まる。

一日にやり取りした現金の精査をした時、100万円が無くなっていることが発覚する。ゴミを漁れどATMを確かめれど、無いものは無い。そんな中、お金で苦労している北川愛理のカバンの中から100万円を束ねる帯封が発見される。ほぼ全員から疑われるも、上司の西木雅博だけは「愛理がやっていないと言うならそれを信じる」と、愛理を全力で庇う。そして管理職の行員からお金を出させ、100万円を『発見』したとして一応の着地をした長原支店だが、西木だけは諦めない。指紋採取をしたり、行員を観察したりして、まずは愛理のカバンに帯封を入れた人間を突き止める。

やっと登場する西木雅博は、組織の中で目立たない存在だ。「ひょうきんでだらしのないお調子者」周りからはそう思われている。しかしその実、1番食えない人物なのが西木さんだと思う。自分の得にはならない犯人探しをしたり、部下をきちんと守るその姿は、銀行員にしてはいい人すぎると思うほどだ。愛理や田端、三木など、重要人物が一気に登場するのも3話からだ。オムニバス形式なのは変わらないが、ここから『100万円紛失事件』を中心にストーリーが展開される。

 

【4話】

普通に泣きそうになった辛すぎる。遠藤さん幸せになって欲しい

成績が伸び悩んでいる遠藤は、大口の顧客を見つけたと勇んで日参する。そんな中、「社長を紹介する」と上司と連れ立って取引先に向かうも、そこは神社。

遠藤さんは、精神を病んでしまっていたのでこんな事が起きたと考えられるけど、これは後の架空会社問題の伏線だと思う。途中まで、遠藤さんの取引先を疑う人はいなかった。それに上司・鹿島さんの騙されやすさを描いているのかとも思う。部下思いで疑うことを知らず、「あぁこんな道もあるのか」って狛犬の前まで来た鹿島さんの感の鈍さも相当だなと

 

【5話】

この話をよく読むと「西木さんが赤坂支店にいた」ことが書かれてる。そこで「最初の1年は輝かしい成果を得た」ともある。もし、西木さんが滝野さんのように石本さんの1000万を受け取る選択をしていたとしたら?

組織の中で成果をあげられなかった西木さんが唯一輝けていたのが「赤坂支店での1年。」その後、後任の上司との折り合いが悪かったとあるけど、後任の支店長が本当に優秀で不正を働けない状況を生み出せる人だったとしたら?「悪い上司はみんな古川さんのようなタイプの人間だ」という1話からの無意識の刷り込みがここで働いているのかもしれない。

 

【6話】

西木さんが色々調べていることが分かるけど、もしかしたら最初、西木さんは犯人が誰か分からなかったのかもしれない。

ただ、滝野さんが犯人だと分かる江島工業がペーパーカンパニーだと分かる石本がいることに気づくかつて自分も1000万を貰っていたのですぐに勘づく

としたらどう?

 

【7話】

「銀行レース」の話はなぜあるか。それは西木さんが「自分の人生を丸ごと賭ける」ことの暗喩ではないかなぁと思ったり。あと、不正はいとも容易く行われてしまうってことの直喩かもしれない。

 

【8910話】

ここで急転直下、全てが解決する。全部の伏線が回収されて、読者は池井戸潤に騙されていたことを知る。

田畑さんが見かけた滝野さんと愛理ちゃんの「金庫を閉めたので受け付けられません。」「ルールがどうのこうの」のやり取り。これは以前なら西木さんが担当してたんだなぁって思う場面がある。西木さんは滝野さんの事情を知っていたんじゃないかな。かもしくは「不正の上に成り立つ銀行」の本質を理解していたんだと思う。だから滝野さんは今までのようにスムーズに金庫を開けてくれなかったり、手続きをなあなあにしてくれない愛理ちゃんにイライラした。そんな融通が効かない愛理だからこそ100万円を盗むなんて有り得わけだけど。

 

「西木さんを殺した」と証言した滝野さんは、その殺害に加わってない。だから西木さんの安否は不明だし、殺害したと言っている石本は行方不明。これは、西木さんの生存を示すものだと思う。赤坂支店時代の西木さんと石本さんに繋がりがあり、石本さんは息をするように1000万をバンカーに渡せる人だと考えると、やっぱり西木さんも1000万を貰ってたと考える方が妥当かなと。「傷のない戸籍でも売り買いする人がいる(要約)」の晴子さんの考えの通り、腐乱した40代と思われる死体は生きることを諦めた第三者の死体だと思う。これは西木さんの代わりに死んだ誰かの死体。

 

西木さんの子供は中学生と小学高学年なのに、デスクの写真は幼少期のものだったことは、西木さんの中で家庭が56年前で止まってるからじゃないかな。この意味では、西木さんは滝野さんより家庭を大切にしてなかったのかもしれない

 

【まとめ】

強欲にお金を追いかけて身を滅ぼした「シャイロック」滝野さん。実の親であるシャイロックを避難してまんまと物語から退場する「シャイロックの子供たち」西木さん。

確かに映像化する時の主人公は西木さんだよなぁと思いました。

池井戸作品あんまり読んだこと無かったけど、やっぱりすごく上手だなぁとしてやられた感じで少し悔しい途中までは先の展開読めるなぁと思ったり、話ごとに見れば予想通りの展開だったり、最後に書きたかったことも分かったりと、多少詰めの甘いところもあったけど、それ以上に伏線回収が上手で入り込める作品だということだと思う。

休憩を挟まずに一気に読み上げると、話も分かるしスイスイ読める。ただ、11話ゆったり読もうとすると、誰が誰だか分からなくなったりおさらいのために前のページに戻らなければならないかも。

残された謎も少なくなかったり、登場人物が多すぎたり、意図が見え見えな部分もあるけれど、伏線回収の上手さや心情描写の巧みさはさすがだなと感心しました。

 

映像化されることで気になってる人にはぜひ!読んで損はありません!

以上、読了後の走り書きでした!

松竹座 七月大歌舞伎の感想

(以下敬称略)

2022年7月15日16時30分開演

 

 

 

前置き

この公演のチケットを取って正解どうか、自分の中で葛藤があった。


『第30回 関西・歌舞伎を愛する会 七月大歌舞伎』

贔屓がたくさん出る。演目も悪くない。何よりも松嶋屋中村屋の共演。贔屓の女方である中村七之助は17年振りの出演だ。行きたい。

歌舞伎美人で座組が発表された時、素直にそう思った。だが、いかんせんチケットは高いし、そもそも大阪まで行くのにお金と時間がかかる。予定も読めない。そんなこんなで、チケットWeb松竹の購入画面とにらめっこすること数日、1度は諦めた。

そんな中、大阪に出る予定ができた。どうせなら泊まろう。そうだ折角なら松竹座も行こう。私の単純な思考回路は、そう結論付けた。

しかし気づけば既に6月も末日。残る座席は1等席のみ。お値段実に17,000円。学生の財布には痛い。のにも関わらず私は飛びついてしまった。ちょうどいい日にちょうどいい座組、乗りかかった船だタイタニックだろうが乗ってやる。そんな答えを出した私の思考回路はやはり単純であるし、これが深夜テンションの恐ろしさだ。

かくして私は、人生初の1等席を手に入れた訳だがここで問題が発生した。贔屓の立役である片岡仁左衛門が、体調不良で休演すると言うのだ。

これは困った。とても迷った。

私の目当ては片岡仁左衛門だ。確かに中村屋も魅力的だが、まだテレビでも諦めがつく。しかし、生で見る人間国宝に替えられるものはやい。仁左衛門丈の体調も心配だ。いや、この1等席は、仁左衛門丈復帰の願掛けも込めた決死の購入。いやしかし……

そんな、やきもきした気持ちを抱えながら過ごすこと2週間。ついに、仁左衛門丈復帰のニュースが飛び込んできた。

待ちに待った瞬間。飛び上がらんばかりに喜んだ。本当に嬉しかった。復帰は7月14日から。私の入る公演の、前日からだった。

お膳立てしたかのような話だ。自分でも驚いた。1等席の輝きが増した。と同時に重みも増した。

現在、歌舞伎座をはじめとした諸劇場では、感染対策として花道横の座席を封鎖している。よって今、花道に最も近い座席は通常よりも2席空いたところとなっている。私が取った席は、そんな花道から2席空けた揚幕近くだった。そう、役者との距離が近いのである。

欲目を出して取った1等席。しかし距離が近すぎる。私にそんな良席に座る資格があるのか……と、随分葛藤した。それだけ、私にとって1等席は重いものだった。

服も新調して、カバンも考えて、感染対策も徹底する。自分なりの万全の体制を持って臨んだ公演は、本当に楽しかったし面白かった。揚幕近くの1等席、その良さを十分堪能できた。行ってよかったと、心から思えた。

肉眼であんなにもはっきりと、役者の顔を見たのは初めてだった。走り去ったあとの風まで感じられたのは、もはや事件だ。

チャランと、揚幕の音が聞こえる度に胸がドキッとした。次は誰が出てくるのか、誰がはけていくのか、裏でドタドタと準備する音も聞こえる。緊張感と高揚感で、胸がいっぱいになった。

奮発した1等席に、見栄を張ったおしゃれ。その全てが報われた気がした。そう思えた、今回の観劇だった。

 

前置きが長くなったが、そんな七月大歌舞伎・夜の部。『堀川波の鼓』と『祇園恋づくし』その感想をつらつらと書いていこうと思う。

 

 

堀川波の鼓』

「色恋、仇討ち、人違い」この3つで話が拗れて人が死ぬことが多いのが歌舞伎だ。特に近松作品に関してはその気が強いと、個人的にはそう思う。

この作品も例に漏れず、色恋で人が死ぬ。

時は江戸中期。小倉彦九郎は、殿の参勤交代に付き添い、隔年の江戸詰めを余儀なくされていた。そんな離れている時間の多い夫を、妻お種はとても恋しく思っている。お種は、実の弟文六(弟だが養子にしている)に鼓を習わせていた。彦九郎が不在のなか、お種は鼓の師匠である宮地源右衛門とふとしたきっかけで関係を結んでしまう(ここまでが一幕)。その噂が広く知れ渡ってしまい、彦九郎の妹おゆらや、お種の妹お藤らがなんとかしようとお種のために腐心するもうまくいかず、最後は一目彦九郎に会ってからと帰りを待ち、命を絶ってしまう。実際に起きた事件を元にした、悲劇である。

泣いた。いや、自分でも驚くほど泣いた。

鼓の師匠に「せっかくだから」と酒を進め、自分も一緒に飲んでしまったお種の姿も、江戸から久しぶりに帰り、懐かしげに我が家でくつろぐ彦九郎と、その帰りを心から喜んでいるお種、お藤、養子の文六が団欒している様子も、平穏以外の何物でもなかったのに。たった1度の酒の席での過ちが、全てを狂わせた。

それまでは「お種」「種」と愛おしそうに名を呼んでいたのに、不義が明るみとなった途端「女」としか呼ばくなった彦九郎の姿。ただただ、深々と畳に額を擦り付けるお種の姿。そして最後、お種にとどめを刺し源右衛門を追って討つという彦九郎に対して「ならば私も共に!」と次々に名乗りをあげるお藤、おゆら、文六を見て「なぜそこまでお種のことを思っているのなら、出家させて命乞いさせなかったのだ」とお種の死を悼み、涙を流しながらそっと自分の羽織を掛けて髪を触る彦九郎。

私の涙腺は崩壊した。

正直「どうしてこうなった」感が拭えない物語ではあるが、だからこそ「あの時こうしておけば」「せめて武士でなければ」のたらればが止まらず、結果として感情が涙となって溢れ出す。

特に彦九郎役の片岡仁左衛門は圧巻だった。

舞台にいるだけでその場が締まる。「女」と繰り返すその一言一言にも、ほんの少しの違いを作る。セリフの間を図る感覚は、さすが人間国宝だ。あの間を作れる役者が、他に何人いる?あの貫禄や雰囲気を醸し出せる役者が、あと何人いる?当代一の立役だと思う。少しお痩せになられたかな?と思うこと以外、休演の名残などなかった。まるで初日からそこに立っていたような違和感のなさ。さすがだ。惚れ直した。

仁左衛門が登場する2幕の方が、1幕よりも、鬼気迫るものがあり、真に感動できたと心からそう思えた。あの座組を引っ張っているのは、間違いなく片岡仁左衛門だ。

もっと見ていたい。彦九郎の顛末を見届けたい。全3段通し狂言にしてくれ。と、上手から下手へ流れるように閉じていく幕を眺めてそう思った。

曽根崎心中』も『冥途の飛脚』も今回の『堀川波の鼓』も。近松作品には「だから!なんで!そうなるの!!」と言いたくなるような作品が多い。これは、当時の江戸市民がそんな話を好んだのかもしれないし、世話物の特徴であるのかもしれないし、そもそも死んで解決しようとする人達の考えの根本が似ているからかもしれない。勉強不足の私にそれ以上のことは言えないが、多少無理な展開でも納得してしまうのも、引っ掛かりのあるセリフでも受け流せてしまえたのも、全ては役者さんの技量によるものだと思う。

情事前後の源九郎から漂っていた、なんとも形容しがたい怪しげな色気や、浮気現場から逃げ去る時の必死さを生々しく表現していた勘九郎も素晴らしい役者だなぁと見直した。お種をどうにかして助けようとする、お藤の健気さを演じきった壱太郎も素晴らしい。兄の性根を正そうと、薙刀を持って勇ましく登場した孝太郎も、まだ子供のあどけなさが残る文六を演じた千之助も本当に良かった。最高だった。

こんな典型的なストーリーで泣くなんて……と悔しく思ったが、泣いたって仕方ない。だって役者が素晴らしかった。

堀川波の鼓』は役者の芸が光る、いい演目だった。

 

祇園恋づくし』

これはまた……打って変わってどコメディ。もう笑いしかないし、くだらないでしかない。疾走感のある一幕構成で、最初から最後まで笑っていられた。「落語をそのまま舞台にした」と言うのもわかる。まるで噺家さんがそこにいるかのように、チャカチャカと話が進んでいくし、笑いのツボも用意されている。

え?こんなに声出して大丈夫?と心配になるほど、客席は笑い声に包まれた。

舞台は江戸時代の京都。江戸の指物師留五郎は、知人である大津屋の主人次郎八に「伊勢参りに来るなら、少し足を伸ばして京都まで来てはどうか」と誘われ、大津屋に滞在する。しかし、言葉も分からない京になじめず、居心地が悪いので江戸へ帰ろうとするも、大津屋の妻おつぎから「次郎八が浮気をしているかもしれないので調べてほしい」と頼まれ、留五郎は京にとどまる。次郎八はおつぎの推測通り、贔屓の芸妓染香に熱を上げていた。また、それと同時に大津屋の妹おそのに「駆け落ちしたいので江戸へ連れて行って欲しい」と頼まれる。京都のはんなりとした喋り方と、江戸のべらんめえ口調の対比や、様々な恋模様が入れ代わり立ち代わりする賑やかな喜劇である。

こんなに、何も考えずにゲラゲラ笑える歌舞伎は初めてだった。

この演目では、次郎八とおつぎを中村鴈治郎が、留五郎と染香を松本幸四郎が、早替わりで一人二役勤める。

 


https://youtu.be/HV-w8OAX0fw

 


一人二役なのに無理のない構成で、三者三様の恋模様が絡み合う複雑な話なのに混乱がなかった。さらに劇中で「留五郎さんは江戸の歌舞伎役者、松本幸四郎に似てる男前だよ」というセリフや、留五郎の見せ場の後に「高麗屋!(松本幸四郎の屋号)」と言われ「気持ちいいねぇ〜!」と答えるシーン、「次郎八さんとおつぎさんは仲の良い夫婦さ顔まで似てらァ」というセリフなど、各所にメタ発言があり少し役者のことを知っている人ならより一層楽しめるつくりとなっていた。

この話の男連中は、すぐに恋に浮かれてしまうし単純だし、そして何より妻に頭が上がらない。情けなくも、粋に京都の夏を楽しんでいる、活気のある町人たちだ。それに対して女連中は、強かで芯があり、男を尻にしいている。

堀川波の鼓とはまるで対照的だ。

同じ浮気でも、方や切腹沙汰だが他方では話の種。男女の力関係も、方や生殺与奪の権を握られているが他方では「婿養子の!癖に!」と尻を叩かれている。この2つの演目を比べてみるのも面白い。

上方と江戸の対比も小気味よく、江戸にも京都にも縁が薄い私でもよく笑えた。江戸の留五郎が銭湯に行きたくて「ゆ(湯)はどこだ?」と尋ねたら「ゆ(柚)なら八百屋にある」と八百屋へ連れて行かれる1番最初のシーン。そして「江戸より京のが優れてる!」「いや江戸のがいいね!」と言い争う場面ではそれぞれの良さが楽しめた。

花道もよく使われており、浴衣をはだけさせ、下駄を鳴らしながら粋に登場する留五郎と、すすす…っと滑るように歩く、美しい染香の姿や、「自分では身分違いだからやっぱり身を引きます」「そんな事言うなんて嫌い!もっとちゃんとしてよ!」と仲良く喧嘩しながら歩くおそのと恋人で大津屋の手代(使用人)文七の掛け合いを、すぐ近くで堪能できた。

染香の出入りしているお座敷の女将役だった七之助は、圧巻の美しさと存在感で、少ない出番にも関わらず記憶に深く残った。初めて生で見る贔屓の美しさは格別だった。

劇中、様々な問題が起こるも最後は全て丸く収まり大団円。終始楽しく、人情味に溢れた舞台だった。

 


初めての松竹座。緊張したが、本当に買ってよかった。行ってよかった。

途中で携帯の音が鳴ったり、劇中なのに観客席から話声が聞こえたりと、言いたいことがたくさんできたがまあいいだろう。帳消しにできるくらい、歌舞伎が良かった。

上方では長く歌舞伎の公演がなかったそうだ。それを盛り上げるために毎年行われてるのがこの『関西・歌舞伎を愛する会七月大歌舞伎』である。上方歌舞伎の名門・松嶋屋は毎年出ている。歌舞伎にあまり縁がないかもしれない大阪の方にも、たくさん見てほしい。歌舞伎は素晴らしい日本の伝統芸能だ。そしてやっぱり、生で浴びたいし、願わくば大向こうもあってほしい。

はやく歌舞伎に日常が戻ってくる事と、もっと歌舞伎を見てくれる人が増えることを祈って、私は来月も歌舞伎を見に行く。

7月は、本当にいい演目に出会えた。本当にいいものが観られた。やっぱり歌舞伎が大好きだ。

 

新橋演舞場 陰陽師-生成り姫- 感想

2022年3月9日ソワレ

 チケットをもぎり場内に入る。

 パンフレットを購入し、半券を片手に席を探す。上手の桟敷席に近い8列目39席。初めての1桁列に胸が高鳴る。

 荷物を置き、席に座る。

 高鳴る鼓動を抑えつつ羽織を脱ぎ、双眼鏡を用意してパンフレットに目を通す。

 

 大学生となって舞台足を運ぶ機会が増えて以来、すっかり板に付いてきた観劇前ルーティンの完了だ。

 まだ客電は煌々としていても、会場内に立ち込めるスモークが既に陰陽師の雰囲気を醸し出しているようで幻想的だったし、幕に投射されている『陰陽師 生なり姫』のタイトルの効果もあり、開演5分前の時点で既に陰陽師の世界に陶酔できた。あとから思えばそれは、夜公演の特権だったのかもしれない。

 

 客席がふっと暗くなり、幕が上がる。

 

不思議な空間がそこに現れた。

 

 平安時代のことを描いているのにどこか現代的な雰囲気も感じる。壮大なセットが現実感を無くし「この舞台はファンタジーなのだ」と主張する。キッパリとしたフィクションであるのに、どこか掴みきれない透明感もある。平安時代ならではの雅さもある。そんな不思議な空間だ。

 

 最初、私の目の前に現れたのは三宅健だった。安倍晴明ではなく、安倍晴明を演じる三宅健だった。だがそれも最初だけ。次第に物語の中へ引き込まれていくうちに、三宅健は消失し舞台には安倍晴明だけが現れた。

 

 上質な役者が揃っていると感じた。綾子姫のわがままっぷり、済時の情けなさ、道満の憎々しい感じ、蜜虫の可愛らしさ、徳子姫の切なさと狂気、そして博雅の人の良さ。全てがきちんと伝わってきた。全てを「役」ではなく「人」として見ることが出来た。それは、演者、脚本、演出が三位一体となってこそのものだと思う。

 

 アートだ。

 

 と、そう感じた。この舞台は芸術なのだと。

 清明には見えていて博雅には見えていない精霊の設定も、笛と琵琶の精霊が博雅と徳子の思いを背負って舞うという設定も、セリフにはないのに全て伝わってくる。

 道満の精霊は古臭くてちょっと意地も悪そうに見え、清明の精霊はイタズラ好きだけど良い奴そうに見えたのは両者の対比を表しているのだろう。言外の概念なのに、観客はそれを正確に掴むことが出来る。その点において、芸術的な舞台だと感じた。

 

 まず特筆すべきはその舞台演出の妙だろう。精巧なセットが組まれ、回り舞台にセリにスッポンまで。演舞場に備わっている、江戸時代から脈々と受け継がれてきている伝統的な舞台装置が駆使されている。1人の歌舞伎ファンとして、この陰陽師の舞台は演舞場や南座などの歌舞伎舞台でしか成立しえないと感じたし、演出や演者の仕草の中にもどこか歌舞伎の要素を感じ取った。

 その一方、ワイヤーを駆使した演出や幻想的な雰囲気を際立たせるような美しい証明など、現代的な手法も盛り込まれており、まるでスーパー歌舞伎のようだと感じた。

 鬼と化した徳子が花道のスッポンで上がってきた時や、誰かが退場するときなど、つい歌舞伎を鑑賞している時のように拍手してしまいそうになったほど、歌舞伎に近いものを感じた。

 

 また、類まれなる身体能力を活かした演出には目を見張った。清明の館での精霊たち。徳子が入水を図りその水を表現する場面。「貴船神社に丑の刻参りをする女がいる。どうにかしてくれ」と、氏子が芦屋道満に頼む場面。鬼女となった徳子が綾子を食い殺す場面。自分の行いを悔いた火丸の自害を、道満が精霊を使って止める場面。「かくなる上は2人で鬼となろう」と徳子と博雅が一体となって鬼と化す場面。全てが人で表現されていた。

 重力が無くなったように軽やかな動き、関節などないような滑らかな動き、コンテンポラリーダンスのような表現。そしてそれはバレエのように、無言でも観客にしっかりとストーリーと想いを伝えられるように緻密に計算され、そして完成されたものであった。特に、5人で大鬼を表現する場面には鳥肌が立った。

 

 それらは全て『陰陽師』と言う、幻想的なファンタジー空間を巧みに演出し、観客をその世界観に引き込むのに最適であり、かつ、不要なものなど何一つ無いと感じるほど洗練されたものであった。

 小道具も細かく、冒頭、清明に勝負を挑んできた陰陽師が渡した木札や、清明が博雅に渡した札などにはきちんと文字が書かれていたし、鬼と化す徳子の爪が徐々に長くなっているという細やかさには感動した。

 

 音響に関して、やはり外せないのは笛の音と琵琶の音だ。平安時代の設定にもかかわらず、どこかケルト音楽のような軽やかさや、異国情緒を帯びていた。しかしそれも、ファンタジックな陰陽師の世界観にピッタリで、違和感もなく、むしろ自然に受け入れられた。

 それに切なさを感じつ旋律は耳にスっと入ってきて頭にこびりついて離れず、観劇後も度々胸を締め付けられた。

 

 最初は冷静沈着で人間味のない清明が、博雅のことになると感情を爆発させる。「お前がいなければ私は私であることすら危うい」という清明はとても頼りなく、今にも消えてしまいそうで、あぁ、これは三宅健にしか出来ない安倍晴明だと実感した。

 

 陰陽師 生成り姫』はその名の通り「生成り姫」が物語の中枢を担っている。「生成り」であるために、鬼と人とを行き来する。その演技の切り替えがこの舞台の鍵を握っていると言っても過言ではない。その点、音月桂さんの演技は秀逸だった。済時に捨てられ、綾子にコケにされた恨みを募らせて鬼と化し、恨みに支配されて人を殺める。その一方で、博雅への想いが徳子を人に留め、死してなおその一途な想いが果たされる。鬼と人とを行き来して博雅とやり取りをする場面を見て、じんわりと涙が滲んできた。

 

 「博雅は本当にいい男だ」というのは、原作でも印象的な清明の言葉だ。その通りだった。ひたむきで裏表のない。陰陽師として、人の闇を嫌という程見てきたであろう清明が、唯一心を許せる相手。

 ひたすらに、善人だった。

 清明清明たらしめ、人との繋がりを諦めさせない博雅の存在は欠かせない。

 

 この物語で重要なのは「根っからの悪人が存在しない」という部分だと思う。清明や博雅、徳子はもちろん、済時も綾子も思いやりと頭が足りなかっただけで悪人ではない。芦屋道満ですら自らの信念に沿って、道満なりに徳子や火丸を助けようとしただけだ。

 

 「悪人がいない」勧善懲悪の物語でないことが、とことんファンタジックなこの物語を身近に感じさせるし、琴線にも触れる部分を生み出すのだと思う。

 悪人がいない。恨む相手もいない。やり場のないやるせなさが涙として溢れてくる。そんな物語だ。

 

 誰かが誰かのために何かをしている。全員が自分を生きているその中で、唯一達観したように、全体を俯瞰しているとも捉えられる蝉丸は稀有な存在であると言えるだろう。

 観客のように、干渉しすぎることなく適切に進言してくれる蝉丸がいることで、視野が狭くなりがちな登場人物たちの独りよがりにならないように上手にバランスが保てているのだと感じた。

 

 陰陽師』は不思議な舞台だ。空間的にも時代的にも現実とかけ離れているのに、見る人の心を揺さぶり涙を誘う。芸術的なまでに作り込まれた演出とは真逆に、演者の芝居は実直で嘘がない。計算され尽くしているというのは同じなのに、ベクトルが正反対を向いている。

 それが見る人の現実味をなくし、そこにあるのに消えてしまいそうな不安定感を産む。そんな舞台だと感じた。

 

 私は1度しか見ることが叶わなかったが、23度見るとまた違う感想が出てくるのかもしれない。けれど、初見で感じた想いを大切にしたいとも思わせてくれる舞台だった。

 三宅健にしか、このカンパニーにしか表現できない『陰陽師 生成り姫』を肌で感じることができて幸福だった。心から、そう思う。

 

#V6 #ComingCentury #カミセン #三宅健 #新橋演舞場 #陰陽師 #観劇 #感想

MURDER for Two マーダー・フォー・トゥー感想

2022126() 1830分〜

 

 grooveコン以来の現場、そしてエンカ。Oslo以来の舞台。前日から胸が高鳴っていた。

柄にもなく丁寧にネイルをし、精一杯の一張羅を身につけ、なれない化粧を施して向かった森ノ宮ピロティホールはなんだかとても輝いて見えた。

 

 開場時間よりも30分ほど早く列に並び、チケットを用意し、友達と「楽しみだねぇ」と語り合う。周りにはV6のグッズを持った方やFCのチケットを持った同士と思われる方々ばかり。

あぁ、もうすぐ坂本くんに会えるのだと緊張は最高潮を迎えようとしていた。

 

 1745分。開場。

 検温とアルコール消毒をすませ、もぎりのお姉さんにチケットを渡して中に入り、すぐさまパンフレットとブリーフケースの列に並ぶ。

 Osloの時は事前にパンフレットを読まなかったことを後悔したので、今回こそはと意気込んで買った。

 

 そしていよいよホールの中に入る。

 するとどうだろうか。もう既に幕は開いていた。舞台上にはセットが準備され、さぁ!今からここで物語が展開されます!と言わんばかりの状態である。胸の高鳴りと興奮は最高潮に達した。

 

 チケットと照らし合わせて座席に座って驚いた。近い。とても近い。こんなに正面から、こんなにも近くからミュージカルを観劇した経験はない。感動した。

 

 高鳴る鼓動と焦る気持ちを抑えつつ、パンフレットに目を通す。しっかりとキャラクターを把握した上で観た方が物語を存分に楽しめると考えたからだ。その考えは正解だった。

 

 客席の照明が落とされ、いよいよMurder for two が始まる。

 

 両脇に設置された扉から坂本くんと海宝くんが登場する。2人でピアノを取り合ったり、邪魔し合いながら連弾する姿はコメディ感に溢れていて、これからコメディミュージカルが始まるぞという合図に感じた。

 

 メガネをかけ、腰を落として老女を演じる坂本くん。次々と舞台に現れるのは坂本くんなのに、全て違う役と言うカオス。

最初は混乱したものの、その演技力によってすぐに見分けがついた。

 

 ダンスのような舞台だなと感じた。精密に計算された無駄のない動き。マーカスの影に隠れるときや、すれ違う時にサッとキャラを変える芸当はまさに百面相。歌いながら踊り、踊りながら喋り、演奏しながら演技する。23つのことを同時にしなければならない。

 間違いなく、日本でこの役をこなせるのは坂本昌行を除いて他には居ないと、そう思わされた。本当に、ダンスのような舞台だった。

 

坂本くんは、器用に演技をする人だと思う。

台本に忠実にしかし時に遊び心を入れつつ、演技に不自然さがない。そして綺麗な演じ分けと、さりげなく残されている「坂本昌行」の片鱗。私はこれを『器用な演技』と表現したい。

 

 マーダーは観客巻き込み型の舞台だ。「ルー」に話しかける時は基本的に観客席に向かって話す。この時点で私は観客=ルーと想定されているのだな、と感じた。きっと、その思惑もあるのだろう。そして、何よりもこの舞台の特質としてあるのは随所に散りばめられた「メタ要素」だ。

 ステフの「まだあたしぃ」というセリフや、「海宝直人」が「坂本昌行」に「出番ですよっ!」と合図する場面。そして「坂本昌行」と「海宝直人」による客席への注意や、それが役である夫人にまで引き継がれていた点。そして極めつけは「スタッフを呼んできてください!」という反則ともとれるセリフ。空想とリアルが入り交じる。

 

 演劇の世界観に入り込んで観るか、1歩下がって俯瞰して観るか、それによって舞台の感じ方も変わるだろう。だからこそ、何度も観たい舞台でもある。

 

 舞台において演出の要となるのは照明だと思う。マーダーに置いてはそれが顕著だ。キャラクターのイメージカラーで、坂本昌行が今どの役を演じているのかを表し、第3の人物である被害者や犯人を照明で表していた。

また、何かを閃いた瞬間のアニメのような電球を照明で表したり、ショータイムと言わんばかりの場面では煌びやかに瞬いていた。大仰な舞台転換が無い分、照明と役者の演技力で魅せるという、シンプルかつ難易度の高い、とても洗練された舞台であると感じた。

 

 『殺人』をテーマとした舞台であるが、全体はコメディ要素に溢れ、観客席からは絶え間なく笑い声が響く。拍手で演者に答え、演者は演技で語りかける。本当に観客がいてこそ成立する舞台だと感じた。

 

 1人で12役を演じ分けた坂本昌行は本当に器用であるし、それを補佐し、また舞台を色鮮やかにした海宝直人の演技力・歌唱力も確かなものである。本当に完成された素晴らしい舞台であった。

 

 今回は初見であり、舞台装置や演出に気が散ってしまった部分も多かったが、観劇後の満足感は本当に言いようも無いものであった。これからさらに2回も観られると思うと胸が高まるし、さらに見方が変わると思うと楽しみでしかない。

 

 日本でも指折りのミュージカルスターがV6にいる、20th Centuryにいる、と言う事実がたまらなく嬉しく、そして誇りである。と改めて感じた。

 観劇後の森ノ宮ピロティホールは観劇前よりずっともっと、輝いて見えた。本当に、いい一日であった。

 

#V6 #20th Century #坂本昌行 #感想 #Murder For Two #オフ・ブロードウェイ

Osloの感想

大遅刻どころの騒ぎじゃないですが…備忘録として書き留めておいた観劇の感想をブログに流します。

まずは、私的初現場である2021年3月20日『Oslo』の感想から。
 

2021320

開演前から足が震えていた。幕の向こうに坂本くんがいる。そう考えただけでドキのムネムネが止まらなかった。パンフレットで予習する心の余裕はなかった。(帰ってから、「読みゃ良かった」と少し後悔)

開幕。浮かび上がるノルウェー国旗。夢にまで見た生の推し。ポロポロと、本当にポロポロと涙がこぼれた。坂本くんが実在している。いま、目の前にいる。ずっと画面越しでしか会えなかった人が目の前にいる。それだけで泣けた。観劇中であったので声は押し殺したが、しばらく止まらなかった。

シャンパンを飲みながら歩き、軽口をきくテリエ。そこに居たのは坂本くんではなくテリエだった。

回想シーンと説明ゼリフ、リアルタイム軸が入れ替わり立ち替わりする。それでも混乱がない。演出、脚本と演者の妙技であると思う。プロは段違いだ。

坂本くんが少し噛んだ。「噛んじゃったんだ〜可愛い〜」と心の井ノ原くんが騒いだ。

他のキャストの皆さんも噛んだりされていたが、中でも秀逸だったのが相島さん。噛んだセリフをなかったことにせず「〜じゃなくてだった」との見事なアドリブ。笑いが起きた。

予習してない私には少し難しかったが、それも最初だけ。世界史選択し、社会科にステ振りした過去の自分。ありがとう。

物語は重厚かつ軽妙。深刻で、怒号飛び交う話し合いの場面と、一気に偏差値が3になったかのような飲み会のシーンの差が面白かった。メリハリがあり、対比が楽しめた。

テリエ以上に魅力的だったのはモナ。優秀かつ大胆で、美人。ストーリーテラーでもあり、彼女がいなければOsloは成り立たない。脚が綺麗で、背筋がピンとしていて、とても綺麗だった。さすが宝塚。

脚といえば、坂本くんの脚は間違いなく26メートルはあった。26メートルでカンストした。あんなにスーツ似合う人を見たことがない。立ってるだけでかっこいいのは事件。もはや坂本くんは脚。ヒールを履いてる安蘭さんよりも腰の位置が高かったので、もう人じゃない。

そんな坂本くんが手の甲にキスをしたり、両手を顎の下で握り「あなたが頼りだ」とか語尾にハートがつきそうな声色で言われたらそりゃ落ちますわ。

積極的に介入したいテリエ。手綱を握るモナ。完璧なコンビ。

柔らかいセリフ。固いセリフ。メリハリがきちんとしていて、演じ分けもしっかり。すごい。

緞帳の一番下にライト。場面分けで使われていた。すごいと思ったのはパーティの場面。ギリギリまで緞帳を下ろし、他の参加者は足だけ。アメリカの外交官()に密談のことを悟られたシーンで音響もざわめきも消た。静寂で血の気が引いたことを表現したのはさすが。演出の勉強になった。

演出。オスロの演出は秀逸だった。素晴らしかった。

まず、場面転換。観客の気をそらさないよう、自然にかつ速く。役者もバテンを手伝い、照明で隠し、音響で雰囲気まで変える。また、同じ板の上でも、照明で場所を示していた。舞台全体を横に大きく使っていた印象。上からじっくり見てみたかった。

次に、1番大きなセットをスクリーン代わりに実際の映像を映し出していた点。生々しい映像により、これがただのフィクションでないことが如実に表されていた。

これは歴史劇ではなく人間劇。素晴らしかった。

特に、最後の場面。オスロ合意が成功し、ホワイトハウス前で握手する2(本物の映像)感無量のテリエ。しかし、100年近くの溝はなかなか埋まらない。その後の歴史の説明。ゆっくりと膝をつくテリエ。悔恨と無念が伝わる。

「見えますか?あの地平線に新しい光が!!(ニュアンス)」全力で頷いた。

万感の最後のセリフ「良かった」が、耳から、目から離れない。涙は止まらなかった。

「私たちは始まりを作った」というモナのセリフは印象的だった。

いい舞台だった。本当に最高だった。人生初のスタンディングオベーション。アナウンスがなっても鳴り止まない拍手。凄かった。

カテコは4回。2回はお辞儀だけ。中央から波のようにお辞儀。あとの2回は手を振ってくれた。周りのお客さんに遠慮して全力で振り替えせなかったのが心残り。

最後、両手でブンブンと手を振り、袖に入る直前まで元気よく手を振っていた坂本くんに惚れた。脚長かった。

電車の中でじわじわ思い出し、ホクホクした。帰宅し、母さんに思いをぶつける。呆れられたけど全然気にしない。

円盤を見ると「ああ、私この人にあったんだ」と、顔が緩んだ。多幸感の極み。いい一日だった。

 

#V6 #坂本昌行 #観劇レポ #Oslo

二月大歌舞伎第二部の感想

 2022年2月24日二月大歌舞伎 第二部

 

 歌舞伎座

TheGINZA歌舞伎座

夢にまで見た本物の歌舞伎座。入場前から胸が高鳴った。

 

 チケットを握りしめ、入場。筋書きを購入し、あらすじを予習する。

 

舞踊は事前にあらすじを理解しておかなければ物語を追いづらい。狂言も、全て古風な江戸時代の言葉で成っているので、例えば『あいや聞こえた!』と言うセリフは『あぁわかった!』と言う意味に脳内変換する必要がある。歌舞伎が大好きでよく見ている身としては、イヤホンガイドなしでも楽しめる自信はあったが、少し不安もあったのであらすじだけは予習しておくことにした。

 

 さて、予習しながら開演を待っていると、続々と他のお客さんも入場してくる。やはり着物を来た人が多かった。男の人も流しを着てたから、なんだか感動した。

全体的に年齢層は高めだけれど、小さな子供もいて、小さな頃の自分を思い出した。順調に歌舞伎好きに育ってくれと密かに念を送る。

 

 いよいよ。二月大歌舞伎第二部が開演された。

 まずは舞踊。

 せりあがってきた舞台を見て驚いた。静御前を演じる片岡千之助くんが美しすぎる。キリッとした横顔、儚くて中性的かつ艶やかな踊り、仕草。

当代の女形で、私が1番贔屓にしているのは中村七之助丈だ。テレビでお七の藤娘を見てから早幾年、それはずっと変わらない。

しかし、翻りそうなくらい美しすぎた。さすが仁左衛門丈の孫。私の好きな顔の血筋が後世まで受け継がれると思うと感動した。

 

歌舞伎の良さはそこにもある。芸が受け継がれ血が受け継がれ、何年も何年も追いかけ続けられる。そして奥が深い。

 

 なんと言っても、物心ついてからはほとんどテレビでしか見たことがなかったが、やっぱり生は良い。それはもう、生で見る歌舞伎に変えられるものは無いと思うほど良い。囃子方の音がはっきり聞こえる。衣擦れの音も聞こえる。飛び上がってバンッと舞台を足で鳴らし、見得を切る立役の凛々しさ。長袴を自在に履きこなし、動く度にシュルシュルと着物の音が聞こえる。

 

 歌舞伎座は、本当に小さな音でも会場全体に響くから素晴らしい。江戸時代からの伝統芸能。ピンマイクなんて文明の利器は存在しないし、照明だって必要最低限。ブロードウェイや宝塚の様に照明で舞台を映えさせると言うよりは、ひたすら芸で圧倒される。そんな感じだった。

 

舞踊は退屈になってしまうかなと心配していたが杞憂に終わった。片岡千之助くんの美しさ、生の和楽器の迫力。その全てに夢中になれた。あっという間の約20分だった。

 

 

 20分の休憩を挟んで、いよいよ狂言義経千本桜』より『渡海屋・大物浦』が始まる。

 

舞踊の時は緞帳であったが、狂言は見慣れた定式幕。拍子木が会場に鳴り響き、黒子さんがタタタッと幕を開けるの見て感動を覚えた。

 

 この二月大歌舞伎第二部に選ばれたのは『義経千本桜』と言う、源義経源頼朝の追っ手から逃げつつ平家の残党をことごとく討ち果たし遂には平家を滅亡させるといったあらすじの狂言。その第二段目。

 

壇ノ浦の戦いを落ち延びた平知盛が、一族の無念を晴らすため、安徳天皇を匿いながら、世を忍ぶ仮の姿として本州と九州を船で繋ぐ渡海屋を営みつつ粛々と復讐の機会を伺い、遂に決戦に打って出るも破れ、圧巻の最期を遂げる「渡海屋」と「大物浦」の2幕だ。

 

主演の平知盛は、当代の立役者で私が1番贔屓にしている人間国宝15代目片岡仁左衛門丈。さすがの迫力だった。

 

 仁左衛門丈が花道から登場した時、場内の空気が引き締まったのがわかった。立ち居姿、振る舞い、荒々しい所作の 中でも気品があり、武家ながらも貴族であった平氏の在りし日を伺わせるものがあった。セリフのないところでも、目の動きや眉の潜め方、キセルの扱いなどは堂々たる風格。絢爛豪華な衣装にも負けないその迫力からは『天才』と言うよりは、長年培われ磨かれた芸の、仁左衛門丈が何十年も積み重ねてきたものが結集していると言った、言外の何かを感じた。「片岡仁左衛門」の前なら、きっとどんな役者も素人に思えてしまうだろう。そんな事を思わされるほど、圧倒的だった。 

一言一言に力があり、一挙手一投足に会場が震える。迫真の演技とは正にあのことだと、本当に心からそう思った。 

 仁左衛門丈の素晴らしさは言わずもがなであるが、もう1人目が離せなかった役者がいる。小川大晴くんだ。

一昨年初舞台を踏んだばかりで今年7歳。幼いながらもしっかりと安徳天皇を演じていた。子供ながらの高い声、不慣れさもまた可愛らしく、小さな手で杓子を持ち、乳母や武士に軽々と抱えられ、黒子さんの絶妙な小道具の入れ替えなどに対応している姿は本当に愛らしかった。ゆくゆくは萬屋名跡を受け継いで行くのだろうが、まだ小さいので本名で活動しているのもこれから成長を見守って行けるようで可愛らしく、楽しみだなと感じた。

 

 義太夫も三味線も絶妙で、歌舞伎を見る度に三味線が弾けたらどんなにいいかと考えてしまう。字幕がなくても聞きやすく、聞きやすいから理解もしやすかった。

 三味線に合わせて舞ったり、義太夫に合わせて表情や仕草を変えたりと素晴らしい連携だった。千秋楽の前日と言う日程も良かったのだろう。練度が最高潮に達そうとしているのが伝わってきた。

 テレビではカットされてしまう幕間の舞台転換も見られて良かった。

 

 2時間という上演時間も素晴らしい舞台の前なら光の速さだ。例に漏れず、第二部もあっという間に大詰めを迎えた。

 

 追い詰められる平氏。次々と自決していく女房や武士たち。「覚悟を決めるとは、なんの覚悟だの?」と聞く安徳天皇のセリフもまた一段と悲劇に拍車をかける。

 戦に敗れ、血まみれになってもなお源氏憎しと立ち振る舞う知盛の姿には鬼気迫るものがあった。ゼーハーと苦しそうな息遣い、ふらつく足元、立っているのもやっとという状態はとても演技には見えず、本当に死んでしまうのではないかとハラハラし、目が潤んだ。

 

白で揃えた甲冑が血で赤く染まっているのは、奇しくも源平の紅白を想起させ、なんとも言えない感情になった。

 そして最期の場面。義経安徳天皇を託し、大錨を持ち上げ海に投げ込み、共に入水する場面だ。一つ一つの動作が知盛の命を削り、刻一刻と最期の時が迫る。その緊迫感が伝わってくる。

武士の情け、と看取るのは、義経ほか源氏の武将。そして幼い安徳天皇だ。

 

 平氏は幼い安徳天皇を慮り、残酷な場面では帝の目をおおっていたが、源氏にはその配慮はなかった。ここにも違いがでていると脚本の妙を感じた。

 知盛が決死の覚悟で大錨を持ち上げた時、会場は拍手に包まれた。それを海に投げ込み「さらば、さらば!」と背中から入水した瞬間、万雷の拍手が鳴り響いた。

 

片岡仁左衛門」が、場を支配していた。

 

 15代目片岡仁左衛門丈は御歳77。今年で78歳となる。知盛の衣装は最重くて20kgにもなるといい、体力の限界を感じたと言う仁左衛門丈は二月大歌舞伎を最後に、二度と知盛は演じないと公言した。

 

一世一代の舞台ということだ。

 

その分、セリフの一つ一つに所作の一つ一つに、知盛を惜しむような、知盛を大切にするような様子がひしひしと伝わってきた。仁左衛門最後の「渡海屋・大物浦」を観られたことは、私の生涯の誉になるに違いない。惜しまれながらも、全力で良いものを見せられるうちに芸をしまい、後世に受け継がせることを決意したかのような仁左衛門丈の姿はとても美しくカッコよく、上方役者に言うのが適切かは分からないが、いなせだなと感じた。

 

 2022224日。「片岡仁左衛門」の芸に圧倒され、さらに歌舞伎が好きになった。

 

歌舞伎座には、私の夢が詰まっていた。

RIDE ON TIME#1 Coming Century

『次回のRIDE ON TIME はV6の特集』

 その一報が入ったとき、Twitterが沸いた。

 一瞬でトレンド入り。「待ってました!」の声。何事かと思った。

 恥ずかしながら、私はこのRIDE ON TIME(以下ROTと表記)というドキュメンタリー番組を知らなかった。聞けば、とても良質なドキュメンタリー番組であるらしい。期待が高まった。さらに、4週連続の特集であるというではないか!1か月間、毎週6人が見られる。こんなに幸せなことはない。ありがとう世界。心の中で五体投地した。

  もともと私は、「ドキュメンタリー番組」というものを好んでみる方では無い。テレビをつけてやっていれば見る、という程度だった。作られたものの方が好きだから。誰かが創作したものが好きだ。世知辛い浮世を忘れさせてくれる、綺麗なフィクションが好きだ。虚像が好きだ。だから長らく二次オタであったし、今もそうだ。V6を好きになれたのも、健くんの「テレビに出ている人なんてみんな虚像だから!」との発言があったからだ。ああ、この人たちは裏切らない。きっと、いつまでも私の虚像でいてくれる。いつまでも、見たいV6を見せてくれる。そう安心できたからだ。もちろん、実像としての彼らを否定するつもりは毛頭ない。実像があっての虚像だ。彼らの全部が好きだ。

  ROTの放送開始前、Twitterではいつものように同世代のファンの子たちとわちゃわちゃ騒いでいた。放送圏に住んでいる子も、そうでない子も、胸を弾ませて放送を待っていた。これは、いつものTLの様子であったと思う。音楽番組の直前も、バラエティー番組の直前も、こうして鼓動をバクバクと騒がせ、胸をキュルキュルと締め付けながらV6のが画面に現れるのを待つ。(最近、同い年の子たちとつながり始めた私は、この時間がたまらなく好きだ。大好きだ。まるで高校の頃の部活のようで懐かしくもあり、心地よくもある。ある種の青春を感じられる瞬間でもある。この場を借りて、皆にお礼を言いたい。本当にありがとう、TLの皆!)そう、放送直前まではいつものTLの雰囲気であったのだ。

 放送直後、これはいつもと違う。そう察した。急いでFODに走った。見た。圧倒された。最初は、軽い気持ちで見ていた。いつも通りの供給だろうと、いつも通りのノリで、楽しんでみるつもりだった。番組が終了した時、私は泣いていた。自分でもびっくりするくらい、じわ~と涙がこぼれてきた。放心状態だった。30分が、宇宙で一番濃密な1秒に感じた。圧倒的で、重い。何かとてつもなく大きなものを受け取った。そんな感じ。全く知らないV6がそこにいた。

 

 前置きが長くなってしまった。今から、ROTの考察に入っていく。これは、個人的意見以外の何物でもない。ROTを見たうえで思ったことを考えたことを、つらつらと書いていこうと思う。

#1Coming Century

『V6、25年目の記念写真』

 この一言が、今日から始まるこのドキュメンタリーは『V625』の集大成であることを表している。そして、実際そうなっている。

 冒頭はV6の紹介。デビュー当時の姿や、懐かしいライブ映像。どれがどの映像か分かるようになっているなんて、一年前で考えられない変化だ。「私も、V6のことに詳しくなってきたな…」と一人悦に入った。若さ溢れる6人が、とても愛おしかった。深夜2時、隣人ことを気にしながら叫んだ。

 とても驚いた。『It's my life』のMV撮影から密着が入っていたからだ。『For the 25th anniversary』の密着だけだと思っていたから本当にびっくりした。だとすると、2020年3月から2020年11月まで、約8ヶ月間の密着ということになる。長期間だ。

 そうか、もし2020年が誰もが思い描いていたような2020年であったのなら、V6は大規模な25周年ツアーを行い、オーラスを代々木で飾り、要所要所でイベントを行い、アルバムリリースなんかもあったり、謎のシリアルナンバーの答え合わせもあったりと、それはそれは濃密な一年となっていたのか。そして、『V6が駆け抜けた2020年』を壮大にまとめたものとしてこのRTOを放送する。そんな構想があったのか。そう思った。

 しかし、そんな2020年は失われ、世界中の誰もが苦境を強いられた。クソ、死ねコロナ。君が描いた未来の中にこんな状況は映っていなかっただろう。だが、だからこそのありのままの6人の姿が、1×6のV6の姿が現れるドキュメンタリーになっている。そんな気がした。「あぁ、これは普通の供給じゃない」そう悟った。

 V6は、個々も強い。一人一人がその道の専門家のように深い知識と、思慮と、経験を持つ。だからライブDVDを見るときなど、「ぉわ!え?なんかすごいメンツだな…え?豪華すぎないか?あ、これがオリジナルメンバーだったわ…」と新鮮に驚く瞬間がたまにある。それくらい一人一人が人間として濃い。だから見ていて飽きないし、常に発見もある。その強い個々と、グループの活動に焦点を当てたドキュメンタリー。『V6、6人、25年』1つの金字塔ともいえるその当たり前を映し出すROT。その第一回が『Coming Century』

V6・岡田准一/俳優・岡田准一

 肩書は大切だ。『V6・岡田准一』なのか『俳優・岡田准一』なのかは、お茶の間の方々には些細な違いかもしれないが、ファンとしては重要だ。『V6の岡田くん』と言われるほうが嬉しい。もちろん『俳優』の肩書も嬉しいが、それでも「アイドルの岡田准一」を求めてしまう私は、極力『V6の』と言ってほしい。

 「俺を見たい人なんていないでしょ」「俺いらないんだけど」そう発言する岡田くんに少し寂しくなった。なんでそんなこと言うの?需要なら少なくとも、ここにあるよ!何度もそう思った。だから、『俳優』と紹介されると岡田くんが遠くに行ってしまうような気がして不安になった。

 岡田くんはV6のことを嫌っているわけではない。これは間違いないと思う。むしろ大好きなのだろう。Visual Bookを見るとそれがひしひしと伝わってくる。しかしきっと、『ファンの思うV6』と『岡田くんが思うV6』は違うのだ。もちろん、当事者としてみるものとファンが見るものとが違うのは当たり前だ。それでも、6人の中でもとりわけ岡田くんの思う『V6像』はファンのそれとかけ離れているように思う。

 岡田くんは、多分、いろいろなことを主観的に考える人だ。「こんな時、自分からどうするか。自分なら何ができるか。自分ならきっとこうだ」彼の行動には、常にその考えが伴っているように感じる。これは誰にでも言えることだろう。規模は違えど、私だってそう考えることは多い。ただ、岡田くん場合「相手の立場になって」考えるというよりは「今の自分がその立場だったら」を考え行動しているのだと思う。

 私が初めてそう考えたのは、まだV6ファンを名乗る前、『愛なんだ2019』でアクション部のPR動画を撮影している岡田くんを見たときだった。難易度の高いアクションに四苦八苦する高校生をみての「いっぱいいっぱいの芝居をしちゃう」という発言を聞いた時、岡田くんにはあれが芝居に見えるのか!と驚いた。と同時に、あぁ彼はなんでも自分基準で考える人なのだな、と思った。もちろん、それが悪いことだとは思わない。そんな岡田くんが率先して仕事を行っているからこそ、高い評価を受ける作品が完成するのだろう。これも一種の才能だ。

 そんな岡田くんの目に映る『V6』は「トニセン+剛健」なのだと思う。当事者である限り、鏡や写真を見なければ、その目に映る『V6』は5人だから。そして、きっとこれがファンとの差異の原因だ。もちろんファンの『V6像』もそれこそ千差万別、十人十色だ。「トニセン+カミセン」であったり「坂本+長野+井ノ原+三宅+森田+岡田」であったり、もちろん「6人のまとまりでV6」という人もいる。枚挙にいとまがない。それでも、ファンの思う『V6』には必ず「岡田准一」という要素が含まれる。岡田くんの思う『V6』にはそれが薄い。そのことがファンに一抹の不安と寂しさを感じさせているのだと思う。

 岡田くんは、器用な人だ。大抵のことは努力でできるようにしてきた人だ。できるようにしてこられた人だ。実力もある。なのになぜか「アイドルとしての自分」を自覚していないように見える。これは完全なファンとしてのエゴであるが、もっと自信を持ってアイドルしてほしいし、声を大にして「あなたは素敵なアイドルだ!」と叫びたい。

 岡田くんは、14歳で上京し、何の経験もないまま、すでに関係性が出来上がっているグループに放り込まれた。それこそ私だったら耐えられない。経験豊富なトニセン、単独コンサートまでこなしていた剛健、そして全くゼロの自分。その印象が、25年経った今でも尾を引いているのではないだろうか。だからこそ、アイドル以外の居場所を見つけることに必死だったのではないだろうか。誰よりも何よりも、岡田くん自身のために。その結果、彼はエンタメの王道に活路を見出した。見出せた。

 『やれたのか。のめりこめたのか。狂えたのか。孤独でいられたのか』

 こんな言葉がするすると出てくる人はなかなかいない。普段から思っていなければ、こんな言葉は頭の中に存在しない。だからこれは、岡田くんの本心なのだと思う。常に自問自答し、前進し続けてきたのだろう。そして見つけた自分の居場所が『エンタメの王道』であり、さらに突き抜けて「武人や軍人のオファーしか来ない王道のヲタク」となったのだ。

 しかし、そんな「岡田准一」の基盤はやっぱりV6だ。6人でいるときの岡田くんは、実家にいるかのように安心している様子に見える。そんな末っ子が愛おしい。それはやはり、5人がいての自分であり、5人と自分がいての『V6』であることを感覚的に自覚しているからだと思う。世界中、どこを探しても同じ関係性など存在しない。この世界線で今しかない『V6な関係』というものを肌で感じているから、「俳優」にあこがれを抱いても「アイドル」に疑問を感じても、岡田くんは「V6」であり続けたのだろう。

 だから私は『V6・岡田准一』の肩書が好きだ。『V6のおかだ』であり続けてくれる彼が好きだ。藻掻きながらも画面の向こうに、ステージの上にいることを選んでくれた彼を尊敬する。

「省エネ」

 V6のファンになる前、森田くんは怖い人だと思っていた。あまり笑わず、冗談も言わず、寡黙で、アイドルらしからぬ人。それが森田くんのイメージだった。だから、ファンになって驚いた。こんなに笑う人だったのか。こんなに面白いことを言う人だったのか。こんなにはしゃぐ人だったのか。剛くんはすごくすごく魅力的な人だった。

 思い返せば私は、剛くんのことをあまり知らない。誕生日、血液型など、知識はたくさんあるが「森田剛」という人間をあまり知らない。だからか、今回のROTで一番新鮮さを感じたのは剛くんだった。そんな私でも、剛くんが「省エネですね」と言われた時は戸惑った。彼のどこを見てそう思ったのか疑問に思った。剛くんをつかまえて『省エネ』と評するなんて、本当に全然わかってないね!と、そう思った。

 剛くんの得意とする「舞台」は、ナマモノだ。そして彼は、その場のその場の雰囲気を、生きている空気感を大切にする根っからの舞台人であるのだろう。

 舞台とは、観客がいて初めて完成する一回限りのものだ。まるっきり同じお客さんの前でやる舞台など、二度と存在しない。故に同じ舞台も二度と存在しない。だからこそ、多くの舞台人をして「舞台は生きている」と評さしめるのだろう。そして、そんな舞台の性格は剛くんの肌に合っているのだと思う。

 『愛なんだ2020』の剛くんと、一人で写真撮影をしている剛くんとでは、何かが違った。「これ(笑顔の)マックスっす」と言っていた時の剛くんの笑顔は、私が知る一番の笑顔ではなかった。『愛なんだ』で、嬉々として学生をいじっていた剛くんの笑顔の方が輝いて見えた。

 これは、目の前に観客が見えるか否かの差であると思う。『愛なんだ』の場合、目の前に「素人さん」という観客がいて、その人たちとやり取りをすることで一つの番組を作り上げていく。なるほど、舞台と似ている。一方で写真は、目の前のカメラマンやスタッフとのやり取りが主だ。実際に雑誌を手に取り、喜んでいるファンの顔がリアルタイムで見えるわけではない。何枚も何枚も撮影した中の一番いい写真を選ぶので、ある程度のやり直しがきく。いわば、舞台とは真逆の仕事だ。

 舞台人である剛くんにとって、その違いは大きいのだろう。「あと5枚」が多く感じるのは、きっとそのためだ。そんな剛くんの仕事に対する姿勢を「省エネ」の一言で片づけられるはずがない。それこそ「こだわっているところが違う」のだから。

 「省エネですね」と言われた時、「失礼だな」「全然わかってないね」「それマズいですよ」とすぐさま否定し、「やっぱり、そりゃそうか」と自分の中に落とし込み「別に省エネにこだわってるわけじゃない」と言語化して説明しようとしてくれた剛くんは、本当に大人なのだなと思った。それ以外にも、ダブルダッチ部の学生たちに対する態度や顧問の先生に対する態度が、きちんとした大人としてのそれで、あぁ剛くんも大人なんだ…と勝手に感心した。抱いていたイメージと少し違っていたから、面食らいもした。そして、これが25年間のトニセンの教育による賜物なのかな?と思うと余計にほほえましく感じた。

 剛くんが『V6メンバー』を語るとき、なんとなく雰囲気が変わるように思う。上手い言葉が見つからないが、特別な何かを語っている雰囲気を感じる。そんな剛くんが「省エネ」のくだりで、唯一名指しで引き合いに出したのが長野くんだ。

 余談ではあるが、少し書いておきたいことがある。オバドラの事だ。

 オバドラの関係性は不思議だ。ファンの間ではよく「オバさんとドラ息子」といじられるし、強い信頼関係もうかがえるがそれだけじゃない。ワンズコンでの『博のいいとこ45』でも、剛くんだけは他のメンバーと違った。「長野くんは優しい」という言うなれば、テンプレのような一言を否定した。それは「自分はみんなが知らない長野博を知っている」という主張のようにも見えたし、「優しい以外の長野くんも長野くんだよ」というメッセージにも思えた。

 V6におけるコンビは、どの組み合わせもメガトン級に尊く、その尊さはそれぞれ違う。そしてオバドラの尊さは、他の誰とも違う、剛くん独特の「長野くん観」とそれに伴う言動。そして、それに気づいてるか否かが分かりにくい長野くんの態度が、大きな部分を占めていると考える。今回のROTを見て、余計にそう思った。

 話を戻そう。例えば以前「長野くんが怒ってるのわかるよ」とも言っていた剛くんは「長野くんが言わなくても、長野くんのことはわかる」という前提に立ったうえで、長野くんのことを俯瞰してみているように感じる。このように剛くんは、些細な表情や語調、動作の変化を見逃さず、言外の感情を読み取ることができる、25年間で培われた経験と感覚に、絶大な自信を持っているのだろう。もちろん、これはきっと他のメンバーに対してもいえることなのだ。岡田くんとは逆に、剛くんは『V6に一番近い第三者』の視点を持っているような気がする。スタッフの視点でも、ファンの視点でもない。その世界や関係性を感じられ理解もできるが、あくまでも客観性を失わない第三者。それこそ、観客のような視点を持っているのだろう。

 だから、V6の「個々の強さ」を一番認識しているのは剛くんなのだと思う。V6が「V6」という作品を演じる一つのカンパニーだとしたら、メンバーは演者であり役そのものだ。剛くんはその個性の一つ一つをきちんと把握し、舞台を完成させるための最大限のパフォーマンスを行うことに長けているのだと思う。

 そんな剛くんを「省エネ」と判断するのは正当ではない。ファンなら少なからずそう思うはずだ。

広い視野

 健くんはよく「自由人」と言われる。メンバーもそう言っているし、TVなどでの言動を見ていてもそうだ。しかし「ただの自由人」ではない。言うなれば「地に足付いた自由人」だ。「自由人」だからこその柔軟な考えと行動力を持ちながら、その活動の基盤となる「アイドル」や「V6」からは、決して離れない。だから、ファンは安心して、その「自由からの供給」を受け止めることができる。そしてこれが、三宅健の三宅兼たる所以なのだと思う。

 健くんは視野が広い。とんでもなく広い。だから、いつ・どこで・誰に見られても『アイドル・三宅健』でいられるように、いつも気を張っている。これは、言動の端々であったり、ラジオでの姿であったり、テレビでの姿を見ているとなんとなく察するところがある。カメラの前であれ街中であれ、それが「人前」である限り、彼は『三宅健』であろうとするのだろう。

 そんな健くんは、今回のコロナ禍にあっても、徹底的な自粛・消毒・換気。三密を避ける行動をとっていた。自分が社会に及ぼす影響力を、正しく理解しているからこその行動であると思う。ROTの中でも、その一端が垣間見えた。

 「こんだけ人が集まって、何時間もやってんだから換気をさ」「10分とか15分とかで」「俺らは集中してて指示出せないから君たちが率先してさ」と、鋭い口調で注意する健くんに、私まで注意された気持ちになった。私は、ここまで注意して生活できているか?楽さを求めるあまり、無視しているところも多いんじゃないか?と、改めて思うことができた。そんな力を持つくらいの、本気の言葉であった。

 ブログの一言に関してもそうだ。一過性のものではいけない。偽善に見えては意味がない。その上、押しつけがましくもない。今日、初めてこのブログを読んだ人も、この文章を目にできるよう、毎回載せる。一回に集約してしまうのではなく、毎回続ける。これが、惰性になってしまわないことが一番すごい。決してテンプレではない。本心からの言葉だと分かる。本人が気を付けていることも伝わる。だからこそ、この言葉が意味を持つ。自分の言動に責任を持つ、という姿勢の表れでもあると感じた。

 そしてこの一言は、もちろん、すべての「医療従事者」への感謝や、それ以外の人に対する注意喚起の意味もあるのだろう。その中でも、とりわけ「医療従事者」にカテゴライズされるファン、「医療従事者」に支えられているファン、人々の生活の要となる仕事に励んでいるファンなど、様々な場面でコロナと戦っているであろうファンへ向けての一言であると感じた。

 そう。健くんはいつも、直接は目に見えない多くのファンのことを考えてくれる。欲しい言葉をくれる。行動をくれる。視野が広くなければできないことだ。そこにこだわりもをっていなければ、できないことだ。そして、ここまで丁寧に真摯にファンと向き合ってくれるのに、それが押しつけがましくない。というのが健くんの最大の気遣いであるように思う。「俺がここまでしてやった。喜べ!」とは、決してならない。最終的な善し悪しの判断は、ファンに任せてくれる。ファンとして『V6』を『三宅健』を推していくことを、決して義務にしない。そんな姿勢もうかがえる。

 例えば字幕のオンオフだ。「耳の不自由な人のために字幕を付ける。だから全員、全編字幕付きのまま見て」とはならない。常に選択肢を残してくれる。それを、当たり前のようにしてくれる。誰も排除しない。誰も見えないことにしない。「ファンである」という一点において、全員を平等に扱ってくれる。受け入れてくれる。

 10周年の時の握手会の映像で、ほんの数秒であっても目の前のファンときちんと目を合わせ「ありがとう」と言っている健くんの姿に感動した。そして、そのほんの数秒が健くんの人生を変えたという事実がたまらなく尊かった。もしあの握手会がなかったら?もし第一言語を手話とするファンの方がいらっしゃらなかったら?今の、福祉やボランティアに積極的な健くんはいなかったかもしれない。

 見えないものや知らないものなど、自分が認識できないものは、自分にとってこの世に存在しないものと一緒だ。それは決して、排除ではない。ただ、知らないから無いものと思っているだけだ。存在は認識から生まれる。そして健くんは、その認識のアンテナを張り巡らせているのだろう。そこに引っかかったものを、無視しないように努めているのだろう。

 万人に好かれる人など、きっと存在しない。だからこそ「わかってくれる人だけに分かればいい」という一種のあきらめと、「自分のことを好きでいてくれる人には、全力を尽くす」とうこだわりが、共存しているのだと感じた。それが、いつも有言実行してくれる健くんの『好きにさせたからには責任をとる』という言葉に対する行動なのだと思う。

 V6で一番『ファン目線』を理解しているのは、健くんだと思う。だから、坂本くんの「メンバーで一番考えているのは健」という言葉は、言い得て妙だ。「ファンにとって、どんなV6が一番か。そうなるにはどうすればいいか」を常に考えているのだとしたら、必然、グループや個々のことを一番考えるようになるだろう。

 同じ「メンバー個々のことを考える」という行為だが、健くんと剛くんでは違いがあると思う。剛くんは『メンバーそれぞれの本質』を見ていて、健くんは『メンバーそれぞれのアイドル性』を見ている、という違いを感じる。それは、目の付け所の違いに繋がっているのだろう。

 主観的に考える岡田くん、俯瞰してみる剛くんに対して、健くんは「ファンとして」の視点を持っているのだと思う。『ファンとアイドル』は表裏一体だ。片方が欠ければ、片方は存在しない。そういった意味では、ファンも当事者であると言える。だから「ファンのためにグループを存続させる」「グループのためにファンのことを真剣に考える」この二つは同義であると思う。

 健くんは常に、『ファンならこう思う』という視点を失わない。日本中、いや、世界中に、何十万人といるファンの立場に立って考えることができる。それこそ「自由」であるからこその、柔らかい発想と広い視野を持ってこそのことだろう。「自由」な感性と発想、そして『アイドルグループ・V6』という基盤によって生み出された『三宅健』が、私は大好きだ。

RIDE ON TIME

 V6のCDやライブDVDにはいつも、特典映像としてメイキングがついてくる。『For the 25th anniversary』の初回盤Aにも、ドキュメントがあった。とても長く、とても内容のある、とても感動するドキュメントだった。そしてROTもドキュメンタリーだ。しかしどこか違う。大きなものが違う。

 具体的に言えば、『It's my life/PINEAPPLE』のメイキングで見たはずの映像が、聞いたはずの内容が、全く違うもののように思えた。確かに「美意識高いから」のくだりで爆笑していたはずなのに。不思議と、まるっきり第三者の視点から見ているような、そんな気持ちになった。

 特典のドキュメントは、V6がファンへ向けて作ったものだ。『V6 to ファン』の一対一のものだ。言うなれば、当事者同士のやり取りだ。対してROTは、その一対一のやり取りを第三者の目線から見つめたものである。この違いは大きい。だからこそ、一度見たはずの場面や、やり取りが全く新しいものに見えたのだろう。

 そういった意味では、ROTはとても価値のある番組だ。普段は、推しに対する熱烈な思いから、なかなか俯瞰してV6を捕らえられないファンが、ドキュメンタリー番組という形で第三者の視点を疑似体験できる。するとそこには、全く知らない、新しいV6の姿が現れる。言葉にならない感情があふれてくる。

『たとえそれがノンフィクションのドキュメンタリーであっても、人が映し出し言語化し世に送り出した時点で、それは人の思いが入ったフィクションになる』

 これは、高校のころ先生に言われた言葉だ。今回のROTがまさにそうなのだろう。限りなくノンフィクションに近く、限りなくありのままのV6に近い。しかし、それでもなお「アイドル=偶像」という神聖を犯さない。ここまでつらつらと持論を書き連ねていった、私が感じ取った『Coming Century』の姿でさえ虚像かもしれない。これだから、「アイドル」は尊いしV6は推しがいがある。

 私は生まれて初めて、真剣にドキュメンタリー番組を見た。その結果、大好きな人たちの、知らなかった一面を発見することができた。剛くんの言葉を借りるなら「こだわる所が違う」三人の姿だ。

 主観的に考えられる岡田くん。俯瞰して考えられる剛くん。ファン目線で考えてくれる健くん。この三人がいての『Coming Century』であり『V6』である。その事実がたまらなく尊かった。その上、こうしていくらファンが考察しようが「犬と戯れる剛健と、そのそばで安心しきって眠っている岡田くん」が存在するという、何にも代えがたい事実にはかなわない。『Coming Century』は、こんな新規オタクの、陳腐な一万字程度の考察で語りつくせるほど浅くない。そのことが、たまらなく愛おしい。

 今回、ステージや番組、舞台で、私たちに「完璧な作り物」を見せてくれるメンバーの素を、垣間見ることができた。このメガトン級の供給によるクソデカ感情を消化するのに、一週間と一万字かかった。ROTは確かに、非常に良質なドキュメンタリー番組である。遂に明日、放送される『#2 20th Century』も楽しみだ。とってもとっても、楽しみだ!