あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

2024年三月大歌舞伎の感想

はじめに

 さすがに関東に行きすぎてる。散財どころの騒ぎでは無い、今まで笑いながら見てきた「遊郭でお金を溶かして後悔する若旦那」に匹敵するのでは?と思うほど、今月はお金を使っている。まずい。しかし後悔はない。頑張れ来月の自分。

 まあ「後悔はない」と文字で強がるのは簡単だが、実は三月大歌舞伎を観るのには少しの迷いがあった。本当にいいのか?さすがに散財しすぎでは無いか……と、1時間ほどの長考の末、ここで「人間国宝詰め合わせパック」とも言うべき昼の部を観劇しなかったことを、絶対に後悔すると言う確信の元、気づいたらチケットを買っていた。既に手が出せるのが二等席しか無かったため、夜の部は断腸の思いで諦めた。悲しいかな大学生の財力……

 そんな三月大歌舞伎の感想をつらつらと書いていこうと思う。例のごとく、これは個人的な感想にすぎない。あらすじを紹介するものでは無いし、ただ、素人が感想をダラダラ綴っていくだけのものだ。

菅原伝授手習鑑 寺子屋

 三大義太夫狂言のひとつ『菅原伝授手習鑑』その四段目。通称『寺子屋』は、私が最も好きな演目だ。物心ついて初めて見た歌舞伎が、現・松本白鸚が松王丸をつとめる「寺子屋」であったと記憶している。以来、私にとって思い入れの深い演目となった。最近は「子供を殺すなんて残酷だ」とか「現代の価値観とかけ離れていて理解できないのではないか」とか言った意見も多いようだが、知ったことでは無い。これは『熊谷陣屋』にも言えることだが、たくさん上演して欲しいと思っている。確かに、忠誠を誓った主君の息子を助けるために、他の子を殺すと言うのは理解し難い感情かもしれないが、うるせぇ!私はそれが好きなんだよぉぉぉ!!!!!!!

 失礼。取り乱しました。

 さて、松王丸を尾上菊之助丈、武部源蔵を片岡愛之助丈がつとめる今回の寺子屋。実は座組が発表された時、私は少し不安だった。

 私の中の松王丸のイメージは、大柄で骨太。野太い声と、我が子の生首を目にしても取り乱さない胆力を持つ、強く逞しく忠義心に溢れた男。と言うものだ。対して菊之助さんは、最近は立役をつとめる機会が多くなっているが、今までは基本的に女方をつとめている。線が細く柔らかい印象を抱いている分、松王丸とのイメージの乖離があったからだ。

 けれど、そんな些末な心配は、菊さんの出と共に吹き飛んだ。

 合ってる…とっても松王丸……と言う小並感を吐き出してしまうほど良かった。あれは一体なんだ……?普段の菊さんよりも一回り大きく見えた。野太い声は響いていたし、松王丸に欲しい貫禄はたっぷりだった。表情の作り方は、なんだか二世吉右衛門の雰囲気を感じた。

 菊さんは、本当に真面目な方なのだと思う。私は特別音羽屋を贔屓にしている訳でもないし、普段の菊さんを知ってる訳でもないけれど、演技の様子や普段のインタビューなどを拝見してそう思う。だから、親父殿が得意とされている魚屋宗五郎や髪結新三はなんだか硬すぎるように感じてしまうのだと思っている。しかし今回は、これが松王丸に合っていた。

 主家と菅丞相への恩義の間で揺れ、子供の命を差し出す松王丸の苦悩が、丁寧にしっかりと演じられていた。「菊さんは真面目だから松王丸が似合うんだ」と言うのが、私の総括である。さらに言えば、犠牲になる松王丸の子供・小太郎が、菊之助さんの実の子供である丑之助くんであったことも、涙を誘った一因である。

 丑之助くんは、まだ小学生ながらもその才能を遺憾なく発揮している。踊りに関しては、大人顔負けの体幹とキレを持っている。将来がとても楽しみな御曹司の1人だ。

 前回『寺子屋』を見た時は、小太郎役の秀乃介くんがまだ3歳と幼く無邪気であったために「何も分からず殺される小さい子」と言う悲しさがあったが、今回の丑之助くんは「全てを理解した上で身代わりとしての死を受け入れる子」と言う悲しさがあった。泣いた。こんなに悲しいことは無い。

 愛之助さんは、さすが上方役者、セリフの違和感がなかった。やはり義太夫狂言は上方役者の方がセリフが馴染むなぁと思いながら見ていた。セリフだけでなく、しっかりと見得も美しく、源蔵の苦労も見えた。やっぱり歌舞伎の様式美は大好きだ。義太夫と三味線と動きと、ピタッとハマった時の気持ちよさと言ったらこの上ない。

 初めて聞いた人には眠気を誘う呪文のように聞こえる義太夫節だが、これは本当に聞いているうちに慣れる。慣れるというか、分かるようになる。「寺子屋」に関しては、何度も何度も観ているので、もうスルスルと頭に入ってくる。特に今回の義太夫は葵太夫さんだったので尚更だ。流石に人間国宝、声が違う。悲劇を語る熱い節がまた、涙を搾り取る。本当に素晴らしい寺子屋だった。

傾城道成寺

 お前ら維盛好きすぎるだろ!!!

 と、およそ何年か歌舞伎を見続けた人間が1度は通るであろう感想()にぶち当たった。維盛とは、三位中将・平維盛である。史実では壇ノ浦の戦いの後入水して果てたとされる悲劇の公達だ。そして「悲劇の公達」は往々にして日本人に好まれる。どうしても維盛生存IFを描きたいらしい。まぁ例に漏れず、私も維盛贔屓の1人なので、その恩恵はありがたく享受する。

 それにしたって、僧侶・安珍と道ならぬ恋に落ちた末、蛇に成り果て諸共に焼け死んだ清姫の物語である道成寺物と、三位中将平維盛が密かに生きていたとする維盛物語を混ぜるなんて、どんなクロスオーバーだよ……とツッコミどころはあるが、華やかで面白いので良しとしよう。訓練された歌舞伎オタクは、この程度のクロスオーバーには慣れている。たぶん。先代の雀右衛門さんを偲び、当代の雀右衛門さんを目に焼き付け、そして菊五郎さんのお元気そうな姿に安心する。それで十分だ。

 菊五郎さんは終始座っていらしたが、口跡もしっかりとされていた。まだまだ芸を見せていただけそうだ。菊五郎さん演じる導師が引連れた童子に真秀くんと亀三郎くん。ものすごく可愛かった。坂東の亀蔵さんのインスタで2人が仲良くしている動画は見たが、やっぱり可愛い…音羽屋も安泰だなぁと勝手気ままなオタクは思うのであった。

 

御浜御殿綱豊卿

 今月の目当てはこの元禄忠臣蔵だ。仁左衛門丈のポスターが公開された瞬間、観劇を心に決めた。それがこれだ。

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 はい、かっこいい。傘寿でこのビジュはもう奇跡だろ。はい好きめっちゃ好き。にざ様は、いつだって私の期待を裏切らないんだ。

 スっと現れた時の格好の美しさ、遊び人風の色気、真面目に政治を考える為政者の顔…そのどれもが様になって、どれもが見蕩れるほど綺麗だった。当代一の立役と謳われる程のことはある。例によってその出では万雷の拍手で迎えられ、会場の誰もが仁左衛門を見に来たのだとわかった。さすが人間国宝一生推す。ただ、にざ様のカッコ良さでも補いきれないのか、動きの少なく難しい話によって周りの席の人たちはバタバタと夢の世界へ旅立って行った。

 去年8月の『新門辰五郎』でも思ったが、真山青果は動きが少なく長ゼリフも多く、話も難しい。だから、ついていけなくなる人も多いんだろう。そもそも忠臣蔵は、日本史の知識がなければ面白くない。「上杉が来る」ことが「吉良上野介が来る」ことを指す。という事を理解するには、吉良上野介の息子が上杉家に養子に出ていることを知らなければならない。もちろん、劇中のセリフでも説明されている事だが、言葉が難しいので聞き取りにくくもあるだろう。また、「京都の関白家」が近衛関白家を指すことも、次期将軍候補である綱豊の正妻が公家の出身であることも、だからこそ息苦しいと言われてることも、前知識がないと入り込みにくいのは確かだろう。うーん……なんだかなぁ………寂しいなぁ……

 真山青果は巨匠だ。と言うのは誰もが認めることであると思う。『元禄忠臣蔵』は確かに大作だし、あれほどのものを書けるのは本当に素晴らしいとも思う。ただ、ただやっぱり、あそこまで「武士」が美化されてる様子は、1歩引いて見てしまう自分がいることも確かだ。この「御浜御殿綱豊卿」の初演は1940年。太平洋戦争の足音も近い軍国主義大日本帝国での上演だ。だからだろうか、なんだか引っかかる。主家への忠義も、仇討ちの心意気も、理想があって現実でない。もちろん、歌舞伎で描かれる「武士」と言うのは美化されてはいるが、しかし、本物の武士が闊歩していた江戸時代と、その名残のある明治時代と、記憶も遠く成り果てた昭和の新作歌舞伎では、やはり美化のされ方が違うんだろう。うーん…なんだか……ねぇ………面白くは…あったよ?

 幸四郎さんの助右衛門は血気盛んな若者だったし、孝太郎さんの江島は「絵島生島」納得の御祐筆だったし、小川大晴くんはとっっっっっっても可愛らしかった。歌六さんの新井白石とにざ様の綱豊との会話は、全く動きがないのに目を離せない凄みがあった。人間国宝だけの空間…すごい…うん。ほら、面白くはあったよ!!

 ……この感じはなんだか近松見た後みたいだなと、そんなことを思った御浜御殿綱豊卿だった。

 

おわりに

 片岡仁左衛門丈、尾上菊五郎丈、中村歌六丈が見られる、人間国宝詰め合わせパックのようだった三月大歌舞伎。寺子屋で号泣し、道成寺で賑やかな常磐津を浴び、忠臣蔵で贔屓を浴びた三月大歌舞伎。やっぱり観劇は楽しいし、歌舞伎座はパラダイスだ。

 新年度になったら、恐らく、もっともっと忙しくなる。気ままに観劇は難しくなるだろう。それでも、生の演劇を浴びて洗い流された気持ちになりたいと、いつだってそう思ってしまうなぁと、そんなことを思った。出来ることならずっと、贔屓を追いかけていたい。