あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

下書き供養2022年の遺物編①

下書きに眠っていたけど、これもう続き書けないや…ってなってしまったレポを放出します…ごめんなさい…

 

みんな我が子ーAll My Sonsー観劇レポート 『みんな我が”息子”』

 

 

2022年6月7日(火)ソワレ:18時開演

 

私は期待を胸いっぱいに溢れさせ、大坂・森ノ宮駅に向かう電車に揺られていた。

今年は1月から、舞台を中心に回っている1年だ。MURDER FOR TWO に始まり、既に6回の観劇を終えた。この『みんな我が子』で7回目となる。実にオタ活に終始している、充実した日々だ。

舞台は、1度踏み入れたら演者も観客も虜になる。板の上で様々な物語が繰り広げられ、その瞬間しか感じられない熱意が、情熱が会場を包み込む。舞台でしか感じられない空気感。得がたい経験。そこでしか見られない特別な景色。

剛くんはそんな、舞台の魔物に魅入られたのかな……なんて、ゆったりと田舎道を走る電車の中、V6のライブ映像を周回しながら、今から会いに行く森田剛へ思いを馳せた。

 

1月以来2回目の森ノ宮ピロティホール。満足するまで写真を撮ったら入場する。チケットを提示し、流れるようにパンフレットを買い、自席を探して座る。

場内は、開演前にもかかわらず、客電は抑えめであった。緞帳も下がっており『みんな我が子-ALL MY SONS-』の赤い文字が投写されている。最初から舞台装置を見せて観客に世界観を刷り込むと言うよりも、幕の中と外で世界を区切っているような舞台だなと感じた。

やや暗めの客電の中、買ったパンフレットに目を通す。ネタバレを踏まないよう注意しながら、キャストのコメントを流し読み、あらすじの部分を熟読する。

ある程度大筋を頭に入れ終わったら、双眼鏡の倍率を調整し、万全の体制を整えその時を待った。

18時。開演のブザーが鳴り響く。

幕が、開いた。

舞台上には、堤真一さん演じる、戦闘機会社社長兼ケラー家の父親であるジョー・ケラと、その隣人である医師・ジョンが、庭先で新聞を片手にゆったりと休日の朝を過ごしている。

そこには、1940年代のアメリカが広がっていた。終戦直後の、まだそこかしこに戦争の爪痕が残っている時代の雰囲気がある。

ケラー家で唯一戦場を知っている、長男のクリスから発せられた「これからは自分の人生を生きるんだ」という言葉には重みがあった。それまで、祖国のためだ家族のためだと自分の命を削って戦っていたクリスの「生」を語る言葉には、代えがたい何かがあった。

『ALL OF MY SONS』がアメリカで初演されたのは1947年。劇中のセリフからもこの舞台の時代設定は1947年付近であることがうかがえる。つまりここでいうところの『戦争』とは『太平洋戦争』のことである。

ジョーが、日本に飛んだ飛行機を作ってたんだ…

そのことに気づいた時、どうしようもなく苦しくなって、どうしようもなく涙が流れた。

結婚祝いに買ってやる、と言っている新しい冷蔵庫も、車も、あの大きな家も、雇われているらしいメイドも全部が全部、戦争特需で成った財産のたまものだ。ケラー家は日本人の血でできていると言っても過言ではないだろう。

1940年代の、アメリカだ。

登場人物全員から、戦勝国の余裕がうかがえる。復員してきたクリスだって、心の傷は深くても、大きな家があって財産がある。お寺の鐘ですら供出させていた日本とは雲泥の差だ。そう思うと切なくなった。

この舞台の主題の一つは『戦争』であると思うが、そのメッセージをより身近に、そしてより自分のことのように感じられるのは、アメリカ人ではなく日本人の方なのではないかと思った。

戦場を知っているクリスや婚約者の兄・ジョージに対して、戦場を知らないケラー家およびその隣人のや婚約者のアニーは、身近な人が戦場に行き命を落としたという傷を抱えながらも、どことなく他人事感が拭えない。ラリーの帰りを信じて待っている母のケイトも、ラリーの生死以外に興味はないように思う。家に爆弾が落ちてきた訳でも、近所が戦場になった訳でもない。「戦友が死んでいった。自分だけが生き残った。父さんは21人の友人を殺しておいてなぜそんなに平気でいられるのか」というクリスの慟哭や思いは、きっとブロードウェイよりも日本に響く。そう感じた。

すごい舞台だ。すごい舞台だった。

照明も必要最低限。明暗だけで朝・昼・夜を表している。目の前で怒涛の1日が繰り広げられているというのに大道具の表情は変わらない。ただ建物があり、倒れた木があり、イスがあり、テーブルがある。純粋に演技だけの勝負。セリフや立ち位置の間合いで行間を語り、醸し出す雰囲気で物語を進めていく。

最低限であったのは照明だけではない。音響もだ。郷愁を誘う不安定な曲調のメインBGMからは、この物語が内包する矛盾感や無常観がうかがえた。SEも最低限で、多くは役者から発せられる音で成り立っていた。森ノ宮ピロティホールはキャパが大きく客席も舞台も広い。以前見に行った『MURDER FOR TWO』の時はピンマイクがあったし、もっと狭い箱でも公演があった『Forever Plaid』でもピンマイクはあった。ミュージカルとセリフ劇の違いでもあるだろうが、それでもマイクなしではっきりと聞き取れるセリフには感動した。

派手な照明もBGMも衣装もない。それでも、セリフ劇特有の含みのある言い回しなどによって、物語に奥行きが生まれていた。あと1mmでも何かがずれてしまえば、すべてが崩壊してしまうような家族のもろさが、生々しくひしひしと伝わってきた。派手さがない分、むき出しの演技にすべてを込めている。そう感じた。

剛くんを見に行ったのに、他の演者さん全員にも好感を持った。全員が、それぞれで輝いている舞台だった。

森田剛。そう、私は森田剛の舞台を初めて見たのだ。

クリスが初めて舞台上に現れるその時のことは、はっきりと思いだせる。

彼は、片手に食べかけのパンを持ち、歩きながらそれを頬張り、そして何気なく庭に出てきた。そこには森田剛ではなく、クリス・ケラーがいた。

剛くんの演技を見るたびに思う。彼は天才だと。

あれだけ圧倒的なオーラを持つスーパーアイドル「森田剛」が、ひとたび演技となると完全に個を消し去るのだ。そこに「森田剛」は残らず、ただ「役」のみが存在する。1つのドラマ、1つの映画、1つの舞台。一度として同じものがなく、一言発する瞬間…どころではなく、一歩歩いたその瞬間から、世界の中から「森田剛」は消える。そして新しい人物が産まれるのだ。

それでも森田剛が演じている以上は、多少の癖なり言い回しの特徴なりが現れたりもする。が、そんなことは気にならない。他の点がそれを補って有り余る。

剛くんは43歳で演じるクリス・ケラーは32歳。相手役の西野七瀬さんは28歳で、演じるアン・ディーヴァーも28歳前後。クリスがちゃんと30代に見えたどころか、森田剛西野七瀬が同世代なのではないかと思うほどだった。実年齢との一回り以上の差を埋めるという演技力を形容するのに、私の語彙力はあまりにも乏しく『天才』としか言い表せない。

言わせてほしい。私が一目見て「あぁ、この人は天才だ」と感じた俳優さんは、森田剛が初めてだった。だから、剛くんがずっと演じてくれるということがすごく嬉しい。もっともっと、剛くんの舞台を見てみたい。

 

(※以下、書き殴りのメモ)

舞台上には常に、二律背反が存在した。男と女、妻と夫、父と母、親と子………。

 

家の庭で1悶着

 

距離感がきちんと図られている感じ

 

家族なのに他人のよう

 

よそよそしい

 

結婚の挨拶の傍らには破壊された木がある

 

舞台上は常に二律背反

 

 

本音と建前

 

それぞれがそれぞれの事情を抱えていそう

 

不穏な空気を存分に孕んだまま、真相が明かされる第2幕へ

 

クリスはイエス

これは、アメリカ的キリスト教アメリカ的資本主義の矛盾を描いた話だ

 

クリスはイエス

でも、ジョーにとってのイエスは二人いて、ジョーはイエスを引き寄せることが出来なかったから旅立ったんだ…

 

三位一体論

 

我が子を殺す父親はいない

 

じゃあ、神は?ヤハウェはイエスを見殺しにしたそういうことだ

 

 

まさかこれが、1日の出来事なんて

信じられない

 

すごい

 

すごい舞台だ

 

 

慟哭が、それぞれの慟哭がすごく響いた

 

剛くんの叫びは胸を打った

 

鳥肌

 

鳥肌

 

個人的に、『みんな我が子』は誤訳だ。『息子』にすべきだなぁって思った。

 

カテコは4回。3回目にごぉくんがペコってお辞儀したのごぉくんで良かった

 

 

多分、植えられた木がりんごの木ってことにも意味があるよなぁ……そうだよなぁ……禁忌だったんだ……禁忌なんだよ……

 

クリスだけが、パンとジュース飲んでた!パンと!ジュース飲んで………あぁ………最後の晩餐…