あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

『サカシマ』つまり道理に合わないこと、背くこと、あえて外れること

はじめに

このブログを読んでいる人の中には、リアルの私を知っている人も多い。だからあえて公言するが、私は大学で演劇部に所属している。まあ、こんなにも観劇に勤しんでいる様子を眺めている読者様方なら、そう驚くことでは無いかもしれない。

さて、今回のブログに綴ろうとしている『サカシマ』は、私が直接見た舞台では無い。部活動の中で触れ、そして激推しされたので読んでみた脚本であり、舞台映像を見た作品である。

だからこの感想は、作品を薦めてくれた後輩に送るつもりで書く。

脚本のデータも舞台映像も、全てインターネットに無償公開されているが、私はとにかく初見の感想を大切にしたい人間であるので、ここで頑なに初見での感想を綴っていこうと思う。

改めて断って置くが、これは単なる感想であるし個人的見解である。あらすじを紹介するものでは無いがネタバレはある。

まあ、後輩が読んでくれたらそれでいいのでね。ネットには流すけれど、大勢に向けたものではないことを理解して欲しい。

 

基本情報

『サカシマ』

作・演出 斜田章大

出演(敬称略)  仲田瑠水  瀧川ひかる  八代将弥  芝原啓成  伊藤文乃  いば正人  藤井見奈子

2019年廃墟文藝部第六回本公演

千種芸術小劇場にて初演

廃墟文藝部第六回本公演「サカシマ」 - YouTubeyoutube.com

サカシマ | 作品 | [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブplaytextdigitalarchive.com

 

感想

脚本について

まず、謝らなければならないことがある。私は最初に些細な嘘をついた。舞台映像を見たのは1度きりだが、脚本を読んだのは1度では無い。だからこれは正確な初見の感想とは言えないが、通して読んだのは1度きりなので、グレーゾーンという事で許容して欲しい。

私が『サカシマ』に出会ったのは、部活動の中でのことだ。だから、脚本を先に読み終えてから映像を見るという、なんだかあべこべな出会いをしている。内容を熟知した上で舞台を観たし、映像の想像がつかないまま脚本を読んだ。

そりゃ、シェイクスピアチェーホフに触れる時は、舞台を観ないまま脚本を読むことも多々あるが、現代劇ではそうそうない。新鮮な体験だった。うん、もっとこのような機会を増やしてもいいかもしれない。とても楽しかった。

『サカシマ』は抽象劇である。主人公の日野陽毬が地上100mの高さから降り注ぐ約5秒間の走馬灯を描いている。だからこれは、夢のような作品だ。ここで言う「夢」とはもちろん、明るく希望に満ち溢れた思い描く未来や希望のことではなく、寝る時に見るようなあやふやで掴みどころも脈略もない「夢」のことである。

読者様は京極夏彦を読んだことがあるだろうか?または泉鏡花や、夢野久作を読んだことはあるだろうか?そのどれかや、または類似の作品を読んだことがあれば伝わりやすいだろう。幻想的に描かれた「夢」のような作品は、気味の悪い美しさを内包する。自分の価値観からかけ離れた物語なのに、どこか自分と通ずるものを感じる。それは舞台設定や考えや状況でもあるだろうし、時に、具体的には分からないものでもあるだろう。そんな、足場も地面もないような世界でたゆたっていると、奇妙な感覚に陥る。不協和音を美しいと思う瞬間が生まれるように、欠落しているものが美しく見えるように、気持ちの悪いものが綺麗に思える。

『サカシマ』は、そんな作品だ。

小説を読んでいるかのような文字量、文章量。朗読劇かのような長ゼリフ。ぐちゃぐちゃな時系列に繰り返される場面。読んでいるだけで混乱する。それでも整合性が取られ、伏線は回収され、残酷な結末は美しくもあり、無駄が一切ない。綺麗だ。綺麗な脚本だった。

綺麗なものは大好きだ。だから、抽象劇は好んで観ないが嫌いでは無い。どちらかと言えば、型通りの様式美を最上の美と感じる私は、不安定で「夢」のような世界が展開される抽象劇を積極的に観ようとは思わないし、自分に書けるとも思わない。それでもやはり、触れれば楽しいし、奇妙な世界は面白い。これは、その作品が綺麗に作られているからだろう。美は正義だ。

脚本とはつまり、舞台の構成要素の根幹だ。脚本がなければ舞台は存在しない。けれど脚本だけでも世界は表現しきれない。だから、作品の本質は脚本を読んだだけでは分からない。

特徴的なト書も、同音意義語も、動きにしなければ分からないし、言葉にしなければ伝わらない。だから戯曲を読むだけで作品を理解した気になってはいけないんだ。それはどんな作品にも言える。

ただ、『サカシマ』に関しては脚本の時点で芸術性が高かった。読んでいるだけでも楽しかったし、鳥肌が立った。これは確かに、賞を取れる本だ。

一番最後、大詰めも大詰め幕切れの瞬間のト書。

物音か。気配か。

ふと、彼は頭上を見上げる。

空から、

                                 サカシマFin

「天才だ」と思った。日野陽毬の決死の特攻の結果を読点1つで表現している。

他にも、このような技巧が散りばめられていた。

 

出演者全員で声を揃えるところがある。男性キャストで声を揃えるところがある。女性キャストで揃えるところがある。100から1つづつ減っていく数字に関連してセリフが始まる。目まぐるしくセリフが飛び交う。静と動が混在している。

様々な楽器を用いて世界を表現する、作曲家のような所業だと思った。いや、作曲家も脚本家も世界を表現することに大差ないのかもしれない。その記号が文字か音符かの違いがあるだけだ。とすると、演出家は指揮者と同義だろう。世界を創り出すのが「神」たる作者なら、世界に形を与えるのが「使者」たる演出家だ。

脚本に一通り感じ入った後は、映像を見てさらに感動するだけだ。脚本家が創った世界は美しかった。演出家が表現した世界はどのようなものであるだろうか?

映像について

円形舞台の歴史は古い。古代ギリシアには既に存在し、そこでは戯曲が上演された。コロッセオだって、巨大な円形舞台だ。だから演劇人が円形舞台を好むのは必然だと思う。西洋演劇に感化された人なら特にそうだろう。

『サカシマ』も、円形舞台であった。客席は2箇所に別れていたので、映像だけを見た私としては、観客が野次馬のように観衆のようにして舞台に参加しているような印象を受けた。

丸い舞台に等間隔に置かれた12個のブロックは、時計の文字盤と同じ位置に配置されていた。つまり、円形舞台は、円形のアナログ時計を表しているのだろう。そこをぐるぐると回っている演者は針だ。それ以外の全ての演者が時計回りに歩く中、日野陽毬だけは反時計回りに歩く。その陽毬に干渉する人が現れたら一緒に反時計回りになる。ほとんどの場合、時計の中で陽毬に干渉するのは、姉の日野灯里であった。「この舞台は『サカシマ』だから、自由に時間を行き来できる」という灯里の言葉通り、時間は交差した。それと共に、演者も散らばり、交差し、めちゃくちゃに歩き回った。やはり人格を奪われた演者は時計の針だ。

舞台はブロックの外側と内側で分けられ、ブロックに座っている演者はそこに存在しないものとして扱われた。袖がほぼ存在しないので、退場もほとんどない。時たま、ビルの上を表現するために、正面から見て奥の方に2階部分に設置された場所から演者が現れていたが、ケレンがあったのはそのくらいだ。

光が当たっている部分で話しているのが、「今」の登場人物であり、それ以外は全てアンサンブルと言っていいかも迷うくらいのガヤに過ぎない。暗転しようものなら会場は漆黒に包まれ、一抹の不安すら覚える。

音響はキッパリ別れていた。BGMがある時は亜空間。BGMが無い時は回想。大詰めで、唯一環境音がした時は感動した。この舞台において、唯一の現実世界が最後に人見康介がタバコを吸う場面であり、彼の死の直前なのだ。

開演と同時に、空から卵が降ってきた。ロックだ。生卵を食べ物としてではなく小道具として使う。私はこの点に関してもったいないことするなぁと思ってしまう貧乏性だが、表現したいことも、やりたいことも分かる。

落ちた卵は日野灯里だ。

卵は、命になりきれなかった命だ。そこには鶏1羽分になるはずだった欠片が詰まっている。卵が降り注ぐことは、命が降り注ぐことだ。だから、日野陽毬は卵を目指して落ちていくし、卵として降り注ぎ、全てのきっかけである日野灯里だったものを中心に舞台が動く。

走馬灯というものを、私は見たことがない。いや、本当の意味での「走馬灯」はテレビで見たことがある気がする。が、「死の直前に人生が走馬灯のようにめくるめく」という意味での走馬灯は見たことがない。よって、これが真に死の直前に起こる現象だとは言いきれない。恐らく、ほとんどの人がそうだろう。

だから、20歳から0歳に飛び、10歳に飛んでまた5歳に戻る。気づいたら19歳で、また20歳の自分がいる……なんて状況はカオス以外の何物でもない。が、これが走馬灯なんだと言われたら、そうなんだろうと納得してしまう説得力がある。

「この舞台には、無駄が一切ない」と前述した。このことは意見が別れるかもしれない。何度も同じ場面、セリフを繰り返すのは無駄だと思う人もいるだろう。しかし私はそうは思わない。

この舞台は、流れるように進んでいく。押し寄せ続ける波のように、怒涛の感情が渦巻く。立て板に水の如くまくし立てられるセリフは聞き取るだけで精一杯になってしまう部分もあり、なかなか理解までたどり着けない。つまり、真剣に集中していなければ聞き流してしまうセリフに溢れているという事だ。だから、重要なセリフは繰り返さなければならない。重要な場面は繰り返さなければならない。そして、繰り返されることはこの舞台にとって必要な事だ。

『サカシマ』は日野陽毬の走馬灯だ。だから陽毬の心に深く根付く言葉や場面は繰り返されて然るべきだ。繰り返されることによって感情が刷り込まれ、観客は陽毬と同化していく。

99.98.97.96.95………と、100からカウントダウンされた数字が、スクリーンに見立てられた床をよぎっていく。脚本では分かりにくかったが、この演出であればすぐに気がつく。数字は、今、陽毬がいる地上からの距離だ。この数字が0になったとき、この舞台は終わる。それが名言されるのは50になった時だが、それ以前に気づける機会が演出から与えられている。空間を割くように出現した数字を声でさえぎって走馬灯に戻る。よく考えられた舞台だ。感嘆する。

舞台上で何度も吸われたタバコも、中心にあり続ける卵も、何もかもに無駄がなかった。

計算され尽くした脚本に、緻密な演出。

あぁ、綺麗だ。綺麗な舞台だ。だから、好きだ。

考察

現時点で5000文字にさしかかろうとしている今回のブログだが、ここまで来たら最後までお付き合い願いたい。このままでは、過去最大の文量になってしまった『凍える』の観劇レポを優に超えてしまう。が、どうしても書きたいんだ、考察を。筆の乗ってしまった愚かな筆者をどうか許して欲しい。このまま続けよう。

日野陽毬

高く、硬い壁と、そこにぶつかって割れる卵があれば、私は常に卵の側に立つ

たとえ、どれほど壁が正しくて、どれほど卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つ

という、村上春樹のスピーチが最初と最後に登場する。舞台冒頭、日野灯里は卵として降ってくる。そう、「卵」が何を示しているかは明白だ。圧倒的な何かにぶつかって砕ける存在。その代表が日野陽毬である。

陽毬は、傷つきやすくて純粋な、守られて育った女の子だ。姉を殺した「何か」に対して怒り、憤っている。姉が死んでから狂い始めた全ての歯車の中で、自分だけは正常でいようと、5歳で出会った占星術に縋る。正誤は問わず、ただルーティンと化したその作業をこなすことで1週間の長さを知り、自分は大丈夫だと安心する。その唯一の命綱が姉を殺したのだと知った時、陽毬の全ては失われた。

そうなる以前にも、雑音がないと眠れない様子や、両親との会話に一切の感情がない様子を見れば、陽毬の心がとっくに壊れていることは自明だ。それでも正常であろうとする陽毬は、間違いなく日野灯里の妹だ。

人見康介を憎みながら「日本メンタルヘルスライン」の電話の受け子をする。そこに母親が電話をかけてきても、思っていたより愛されていなかったのだと知っても揺るがず存在し続ける。だって日野陽毬は、姉を殺した「何か」を探すためだけに存在しているのだから。

だから目的が達成された時、彼女は真っ先に「灯里を殺したやつ」を殺す事にした。つまり、自分と人見康介を殺すことにしたんだ。

揺るがぬ信念を持った人は、存外に脆いものだ。と言うのは私の持論だが、陽毬にも同じことが言えるだろう。何もかも失った陽毬は、最後に父親の遺言を達成するために降り注いだ。8月にこの国に落ちた「太陽」のように降り注ぎ、人見康介に特攻した。たった1人の、大切な姉・日野灯里の敵を討つために。

日野灯里

灯里は、作中で唯一、ずっと死んでいる。死んでいる存在だから、灯里は登場人物の中で唯一、亜空間の陽毬に接触できる。

いや待て、回想にも登場するし、陽毬が灯里の死の真相を知る場面では初めて生身の「日野灯里」が登場するじゃないか!と言われるかもしれない。が、やはり日野灯里はずっと死んでいる。

なぜか?

それは、「日野灯里の死」が物語のきっかけであり大前提であるからだ。「最初に落ちた卵は、日野灯里の隠喩である。」という自論を、私は譲らない。

灯里は劇中のほとんどで「怒って」いた。泣きじゃくる陽毬を前に「泣いてないで怒りなさい」と言って怒っていた。

だって悪逆は許せないでしょう陽毬、理不尽は許せないでしょう陽毬、非合理は許せないでしょう陽毬、無秩序は許せないでしょう陽毬

と。

思い出して欲しい。この劇は「日野陽毬の走馬灯」である。時系列がぐちゃぐちゃだから忘れがちになるが、この作品は日野陽毬が最期に人生を振り返る物語だ。これは、全てが終わった時点で全てを振り返る話だ。

「姉が道ならぬ恋に落ちて死んだ」ことを知った陽毬の脳内で「悪逆も理不尽も非合理も無秩序も許せない」と怒る灯里は、本当に正義感の強い人間だったんだろう。

だから死んだんだ。

正義感も責任感も強い灯里は、既婚者を一方的に愛してしまったという、小さな片思いすら許せなかったんだ。

そんな灯里を、人見康介はわざと飛ばした。

人見康介

ひどく不快な男。ひどく気持ち悪い男。ひどく苛立たしい男。生まれて初めて殺してやりたいと思えた男

陽毬の、人見康介に対する第一印象だ。

散々な言われようだが、言い得て妙である。こいつは、真性のクズ。カスみたいなクソ野郎と言い切ってしまってもいい。こんなヤツに惚れた泉水の気が知れない。……泉水はまだ登場してないじゃない。って?うん、そうだね。このブログはサカシマではないので、ひとまず順番に行こう。

カスみたいなクソ野郎が登場する作品には慣れているつもりだ。歌舞伎は基本的にそんなヤツらで溢れてる(過言)。でも、人見康介は歌舞伎に出てくる奴連中のようなクソ野郎では無い。どちらかと言えば色悪寄りの、底意地の悪い人間だ。

彼は世界の全てに退屈している。

1999年7月31日。ノストラダムスの大予言が外れたその日に死のうと思うくらい、世界がめちゃくちゃになることを望んでいる。いつだって、隕石がおちてこればいいと思っているし、核戦争が起こることを夢見てる。死にたがっているくせに、自殺をしようとはしない。きっと、生きている実感を得るために死を感じていたい人なのだと思う。傍迷惑なやつだ。自分の愉悦のためなら、いくら他人を犠牲にしたとしても構わないと思っている。

やっている事は積極的な自殺幇助だ。なのに一切罪には問われない。言葉は目に見えないし、死体は喋らないから。だから一層タチが悪い。人見康介は、人を殺す方法を知っている。

灯里が、日本メンタルヘルスラインに電話をかけた時、出たのが康介だったのが悲劇の発端だ。

死んでましまえと言われると逆に死ぬ気が無くなる人間もいます。その人にとって一番死にやすい言葉を探して伝えます。人によっては、「死なないで」という言葉が、「諦めないで」という言葉が最後の一歩を踏み出すきっかけになることだってあります。

と言うのは二兎泉水の言葉だ。康介は、その場その場に合う言葉を適切に選べてしまうらしい。現にそうだった。

灯里がその自死を迷って電話をした時、彼は最初に「死ね」と言った。「生きていてもいいことないよ」と。その言葉を受けて、灯里は躊躇した。二の足を踏んだ。康介にとっては、それじゃあつまらない。だから灯里の傷を抉るような事を言った。寄り添っているフリをしながら。父のことを聞いた、母のことを聞いた。そして妹のことを聞いた。まだ未来があるんだよと囁いた。そして灯里は飛んだ。

陽毬の占いであの時蟹座が最下位だったのは、ただの偶然だ。たまたま最下位で、たまたま灯里がそれを見た。例え結果が1位であったとしても、結末は変わらなかっただろう。康介は言葉巧みに灯里を飛ばしたに違いない。

灯里を唆している間の、飛んだ瞬間の、康介の悦に入った顔の醜さは忘れられない。下衆だ、こいつは。

人見康介のしていることは、快楽殺人者のそれと大差ない。だから、二兎泉水はひと握りの後悔を抱えている。

二兎泉水

世界がめちゃくちゃになればいいと思っている、死にたがりの関節殺人者の恋人が、少しでも長生きしたいと思っている二兎泉水であることは、なんの因果だろうか?

1999年7月31日にノストラダムスの大予言が外れた時、死のうとした人見康介を見て一目惚れし、口説き落としたのが当時小学生の二兎泉水だ。それから20年も一緒にいるのだから、多分本物の関係なんだろう。が、酷く歪んでいる。

例えばあなたが止めたせいで自殺をやめたのが先生だったらどうでしょうか?あなたが止めたせいで生き延びた先生はこんな仕事を始めて、そのせいで何人もの人が自殺するかも知れません。

この言葉は、陽毬に言っているようで実は自分に言っていたのだと、観客は後になって気づく。

陽毬が実際には見ていないが、後で知ったことを想像で補う場面。泉水は康介に請われるまま、強く首を絞めていた。「最後までした方がいいですか?」とも聞いていた。「どっちでもいいけど」と答えた康介はとことん他力本願に見えるが、本当にどちらでもいいんだろう。ただ、首を絞められないと生きていると感じられない。それで死のうが関係ない。それだけだ。

だから泉水は康介を殺せない。自分も長生きしたいし、他人にも長生きして欲しい泉水に、恋人を殺せるわけが無い。

では、二兎泉水は善人であるかと言うとそうではない。陽毬が死を決意したのは、泉水が録音データを渡したことがきっかけであるし、そもそも真の善人なら康介を許すことはないだろう。

笑顔を貼り付けて他人と接し、殺意を持ちながら恋人を愛す。そんな人間が正常であるわけがない。いや、そもそも日本メンタルヘルスラインにいる人間は正常でないのだと思う。

猫宮睦美

陽毬ちゃん凄いよね。

一週間もった人久し振り。だいたい二、三日で来なくなっちゃうんだよね。

と言うセリフが物語るように、日本メンタルヘルスラインでの仕事は激務である。

かつて深夜バイトに勤しみ身体を壊した経験のある私が語るのだから間違いないが、人間は深夜に働く生き物では無い。体内時計は狂うし、メンタルも安定しない。そんな状態にも関わらず、「死にたい」と思い悩む人間の言葉を延々と聞き続け、イタズラ電話にからかわれ、そして時に人の死に触れる。そんな仕事、「二、三日で来なくなる」のが大半の人間だろう。

だから、日本メンタルヘルスラインに居続けることの出来る人間は、正常では無い。

睦美は天真爛漫な少女だ。家出をして、遠縁の泉水を頼ってここにいる。深く悩む素振りもなく、あっけらかんと存在している。そしてその、彼女の短絡的楽観さが、陽毬の母を殺した。「母親なら普通気づきません?ウケる。」と、電話口に出たのが娘だと気づかなかった母を遠回しに責めた。この時、睦美が見ていたのは陽毬の母であったのだろうか?それとも、自分の母であったのだろうか。

睦美は、不良少女だ。学校も行かず怪しいバイトをこなし、タバコだって吸う。多分お酒も飲んでるだろう。とても中学生とは思えない。

このことは、睦美の倫理観の薄さを表現しているのだと思う。他人を慮ることなく自分をやりたいように生きてる様子を表現しているのだと思う。

そんな睦美が、作中唯一人を追い詰めるのが、陽毬の母である。

いつだって誰にだってフラットな姿勢である睦美が、「母」を責める。その場面を見て、睦美はきっと自分の母に言いたいことを陽毬の母に言っているのだと思った。「家出した娘は非行の限りを尽くしてますけど、母親なら普通気づきません?ウケる。」と、言いたいのかもしれない。睦美もきっと、「愛して」と叫んでいる。

泉水と睦美は似ている。手の届くところにあるはずの愛を、歪んだ形で求めている。それに2人とも、他人にフラットなようで、内側には決して入り込ませない。そして、悪気ない一言で人を殺す。何がその人にとって琴線に触れる言葉なのかは分からない。しかし2人は、無意識のうちに「相手を殺す言葉」を放つ。それは多分、人見康介と長く一緒にいるからだ。

日本メンタルヘルスラインは、それ自体が毒なのだと思う。

父と母。日野太一と日野恵美。

毒親」という言葉があるが、日野家の両親は絶対に毒親ではないと言い切れる。真っ当に子供を育てた、ひどく真面目な両親だ。

だから、自分の正義に苦しむ。だから良心が痛む。「こうあってはならない」という思いに囚われ、「こんなことが許されてはならない」という思いに支配される。

娘が死んだ悲しみが心の均衡を壊し、暴走した不安と正義がぶつかった時、新しい悲劇が生まれた。

彼らは、きちんと陽毬を愛していたのだと思う。灯里も、陽毬も愛していた。しかし、いくら家族でも、いくら姉妹でも、それぞれは別の人間だ、人間である以上、好き嫌いも合う合わないもある。程度の差があるのは、当たり前だ。

でも、2人はそれを許せない。そんな自分が許せないし、そんな自分が悲しいのだ。そして、その感情が極まった死んだ。殺されたし、殺したし、死を選んだ。

「正常」な人間

狂ってる。

と一言で片付けるのは容易い。が、私はそんな安易なことはしたくない。直接的な表現は好まない。

人間は誰しも、一定の狂気を内に秘めているのだと思う。それを外に出さないのは、あまりに利己的すぎてしまうからだ。剥き出しの利己心は他人を傷つける。他人を傷つけた人間は、その共同体の中では生きていけない。「社会的動物」である人間は、そのための理性を持っている。

でも、その理性のタガが外れてしまったら?

秘めなければならない狂気が溢れ出してしまったら?

この作品において、全てのきっかけになったのが落ちた卵であり、日野灯里だ。

落ちた太陽

お姉ちゃんは壁を砕くことはできなかったけれど、それでも確かに罅はいれた。

日野灯里は、何に罅を入れたんだ?なぜ地面じゃなくて壁なんだ?

そんなことは自明だ。灯里が罅を入れたのは理性であり、狂気を閉じ込める壁である。日野家のタガを外したのは長女だ。

それぞれがそれぞれの「タガが外れた瞬間」を持った、狂気の集団が「日本メンタルヘルスライン」の面々である。だから陽毬はそこに存在し続けられる。陽毬も、狂気の人だから。そう考えると、陽毬が必死に「正常」を保とうとしていたのが滑稽に思えてくる。何を今更、と。あなたはとっくに壊れているんだよ、と。

小さな頃何度も見せられた恐ろしい映像。

同じ世代の人であれば誰でもピンとくるような

繰り返し、繰り返し見せられた破壊の映像。

つまり、

聳え立つ高層ビルに突き刺さり爆発する飛行機

あるいは家を車を何もかもを飲み込んで進む灰色の津波

でも一番は大きな太陽

八月にこの国に落とされきのこ雲を広げた大きな太陽

印象的に、何度も繰り返されるセリフである。

私も「同じ世代の人」であるらしい。言葉で聞くだけでピンとくる。

つまり、「9.11アメリカ同時多発テロ事件」「3.11東日本大震災」そして「8.6及び8.9広島・長崎原爆投下」だ。

凄まじい破壊をあげて、その中でも1番は原爆である。と、この作品は語っている。

人見康介は核戦争が起きて世界がめちゃくちゃになることを望んだ。

日野陽毬は、そんな康介に向かって「1つの太陽となって」降り注いだ。

そう、この作品の核は、文字通り「核」である。

核戦争を望んだ人見康介が、自らを核爆弾に見立てた日野陽毬に殺される。

この図に、私はひどく感動した。完膚なきまでに整合性の取られた脚本の美しさに感動した。

何度でも言おう。綺麗だ。だから大好きだ。

最後に

この舞台は「サカシマ」だ。時系列もぐちゃぐちゃだし、空間もめちゃくちゃ。真にリアルタイムの現実は、最後の最後、人見康介の最期の一瞬だけしかない。

登場人物は全員「道を外れた」人間だし、そもそも「残り50年はあったはずの人生を5秒に詰め込む」ことが道理に合わない。

全てが「サカシマ」である。だからこの作品のタイトルが『サカシマ』であることは必然だ。テーマまでも「サカシマ」である。

繰り返し、繰り返し、私はこの作品が「綺麗な作品である」と主張してきた。その根拠がここにある。

筋道立てられ、一切の矛盾がない世界はとても美しい。作中に登場する不合理ですら、その世界観で完結し、説明がされるならばそれはもうスパイスでしかない。

『サカシマ』は、日野灯里の死をきっかけに動き出した卵の矜恃の物語だ。

描かれ方が「サカシマ」でも、登場人物が「サカシマ」でも、観客が生活する現実と大きくかけ離れていても、それが「サカシマである」という一点において、世界観がブレずに存在する。

だから気持ち悪いのに綺麗なんだ。だから私はこの作品が好きなんだ。

とても良い作品に出会えた。これは、今後の私の創作活動にも影響するものであると思う。とても楽しかった。出会いを与えてくれた後輩に感謝だ。

久しぶりに勢いに任せて書き殴った。例によってステルス加筆修正は適宜して行くだろうが、ひとまず筆を置こうと思う。

やっぱり、観劇は楽しい。誰かの作った世界に没入するのは楽しい。

ここまで、こんなくっそ長いブログにお付き合い頂きありがとうございました。また別なブログでお会いしましょう!!