あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

2024年三月大歌舞伎の感想

はじめに

 さすがに関東に行きすぎてる。散財どころの騒ぎでは無い、今まで笑いながら見てきた「遊郭でお金を溶かして後悔する若旦那」に匹敵するのでは?と思うほど、今月はお金を使っている。まずい。しかし後悔はない。頑張れ来月の自分。

 まあ「後悔はない」と文字で強がるのは簡単だが、実は三月大歌舞伎を観るのには少しの迷いがあった。本当にいいのか?さすがに散財しすぎでは無いか……と、1時間ほどの長考の末、ここで「人間国宝詰め合わせパック」とも言うべき昼の部を観劇しなかったことを、絶対に後悔すると言う確信の元、気づいたらチケットを買っていた。既に手が出せるのが二等席しか無かったため、夜の部は断腸の思いで諦めた。悲しいかな大学生の財力……

 そんな三月大歌舞伎の感想をつらつらと書いていこうと思う。例のごとく、これは個人的な感想にすぎない。あらすじを紹介するものでは無いし、ただ、素人が感想をダラダラ綴っていくだけのものだ。

菅原伝授手習鑑 寺子屋

 三大義太夫狂言のひとつ『菅原伝授手習鑑』その四段目。通称『寺子屋』は、私が最も好きな演目だ。物心ついて初めて見た歌舞伎が、現・松本白鸚が松王丸をつとめる「寺子屋」であったと記憶している。以来、私にとって思い入れの深い演目となった。最近は「子供を殺すなんて残酷だ」とか「現代の価値観とかけ離れていて理解できないのではないか」とか言った意見も多いようだが、知ったことでは無い。これは『熊谷陣屋』にも言えることだが、たくさん上演して欲しいと思っている。確かに、忠誠を誓った主君の息子を助けるために、他の子を殺すと言うのは理解し難い感情かもしれないが、うるせぇ!私はそれが好きなんだよぉぉぉ!!!!!!!

 失礼。取り乱しました。

 さて、松王丸を尾上菊之助丈、武部源蔵を片岡愛之助丈がつとめる今回の寺子屋。実は座組が発表された時、私は少し不安だった。

 私の中の松王丸のイメージは、大柄で骨太。野太い声と、我が子の生首を目にしても取り乱さない胆力を持つ、強く逞しく忠義心に溢れた男。と言うものだ。対して菊之助さんは、最近は立役をつとめる機会が多くなっているが、今までは基本的に女方をつとめている。線が細く柔らかい印象を抱いている分、松王丸とのイメージの乖離があったからだ。

 けれど、そんな些末な心配は、菊さんの出と共に吹き飛んだ。

 合ってる…とっても松王丸……と言う小並感を吐き出してしまうほど良かった。あれは一体なんだ……?普段の菊さんよりも一回り大きく見えた。野太い声は響いていたし、松王丸に欲しい貫禄はたっぷりだった。表情の作り方は、なんだか二世吉右衛門の雰囲気を感じた。

 菊さんは、本当に真面目な方なのだと思う。私は特別音羽屋を贔屓にしている訳でもないし、普段の菊さんを知ってる訳でもないけれど、演技の様子や普段のインタビューなどを拝見してそう思う。だから、親父殿が得意とされている魚屋宗五郎や髪結新三はなんだか硬すぎるように感じてしまうのだと思っている。しかし今回は、これが松王丸に合っていた。

 主家と菅丞相への恩義の間で揺れ、子供の命を差し出す松王丸の苦悩が、丁寧にしっかりと演じられていた。「菊さんは真面目だから松王丸が似合うんだ」と言うのが、私の総括である。さらに言えば、犠牲になる松王丸の子供・小太郎が、菊之助さんの実の子供である丑之助くんであったことも、涙を誘った一因である。

 丑之助くんは、まだ小学生ながらもその才能を遺憾なく発揮している。踊りに関しては、大人顔負けの体幹とキレを持っている。将来がとても楽しみな御曹司の1人だ。

 前回『寺子屋』を見た時は、小太郎役の秀乃介くんがまだ3歳と幼く無邪気であったために「何も分からず殺される小さい子」と言う悲しさがあったが、今回の丑之助くんは「全てを理解した上で身代わりとしての死を受け入れる子」と言う悲しさがあった。泣いた。こんなに悲しいことは無い。

 愛之助さんは、さすが上方役者、セリフの違和感がなかった。やはり義太夫狂言は上方役者の方がセリフが馴染むなぁと思いながら見ていた。セリフだけでなく、しっかりと見得も美しく、源蔵の苦労も見えた。やっぱり歌舞伎の様式美は大好きだ。義太夫と三味線と動きと、ピタッとハマった時の気持ちよさと言ったらこの上ない。

 初めて聞いた人には眠気を誘う呪文のように聞こえる義太夫節だが、これは本当に聞いているうちに慣れる。慣れるというか、分かるようになる。「寺子屋」に関しては、何度も何度も観ているので、もうスルスルと頭に入ってくる。特に今回の義太夫は葵太夫さんだったので尚更だ。流石に人間国宝、声が違う。悲劇を語る熱い節がまた、涙を搾り取る。本当に素晴らしい寺子屋だった。

傾城道成寺

 お前ら維盛好きすぎるだろ!!!

 と、およそ何年か歌舞伎を見続けた人間が1度は通るであろう感想()にぶち当たった。維盛とは、三位中将・平維盛である。史実では壇ノ浦の戦いの後入水して果てたとされる悲劇の公達だ。そして「悲劇の公達」は往々にして日本人に好まれる。どうしても維盛生存IFを描きたいらしい。まぁ例に漏れず、私も維盛贔屓の1人なので、その恩恵はありがたく享受する。

 それにしたって、僧侶・安珍と道ならぬ恋に落ちた末、蛇に成り果て諸共に焼け死んだ清姫の物語である道成寺物と、三位中将平維盛が密かに生きていたとする維盛物語を混ぜるなんて、どんなクロスオーバーだよ……とツッコミどころはあるが、華やかで面白いので良しとしよう。訓練された歌舞伎オタクは、この程度のクロスオーバーには慣れている。たぶん。先代の雀右衛門さんを偲び、当代の雀右衛門さんを目に焼き付け、そして菊五郎さんのお元気そうな姿に安心する。それで十分だ。

 菊五郎さんは終始座っていらしたが、口跡もしっかりとされていた。まだまだ芸を見せていただけそうだ。菊五郎さん演じる導師が引連れた童子に真秀くんと亀三郎くん。ものすごく可愛かった。坂東の亀蔵さんのインスタで2人が仲良くしている動画は見たが、やっぱり可愛い…音羽屋も安泰だなぁと勝手気ままなオタクは思うのであった。

 

御浜御殿綱豊卿

 今月の目当てはこの元禄忠臣蔵だ。仁左衛門丈のポスターが公開された瞬間、観劇を心に決めた。それがこれだ。

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 はい、かっこいい。傘寿でこのビジュはもう奇跡だろ。はい好きめっちゃ好き。にざ様は、いつだって私の期待を裏切らないんだ。

 スっと現れた時の格好の美しさ、遊び人風の色気、真面目に政治を考える為政者の顔…そのどれもが様になって、どれもが見蕩れるほど綺麗だった。当代一の立役と謳われる程のことはある。例によってその出では万雷の拍手で迎えられ、会場の誰もが仁左衛門を見に来たのだとわかった。さすが人間国宝一生推す。ただ、にざ様のカッコ良さでも補いきれないのか、動きの少なく難しい話によって周りの席の人たちはバタバタと夢の世界へ旅立って行った。

 去年8月の『新門辰五郎』でも思ったが、真山青果は動きが少なく長ゼリフも多く、話も難しい。だから、ついていけなくなる人も多いんだろう。そもそも忠臣蔵は、日本史の知識がなければ面白くない。「上杉が来る」ことが「吉良上野介が来る」ことを指す。という事を理解するには、吉良上野介の息子が上杉家に養子に出ていることを知らなければならない。もちろん、劇中のセリフでも説明されている事だが、言葉が難しいので聞き取りにくくもあるだろう。また、「京都の関白家」が近衛関白家を指すことも、次期将軍候補である綱豊の正妻が公家の出身であることも、だからこそ息苦しいと言われてることも、前知識がないと入り込みにくいのは確かだろう。うーん……なんだかなぁ………寂しいなぁ……

 真山青果は巨匠だ。と言うのは誰もが認めることであると思う。『元禄忠臣蔵』は確かに大作だし、あれほどのものを書けるのは本当に素晴らしいとも思う。ただ、ただやっぱり、あそこまで「武士」が美化されてる様子は、1歩引いて見てしまう自分がいることも確かだ。この「御浜御殿綱豊卿」の初演は1940年。太平洋戦争の足音も近い軍国主義大日本帝国での上演だ。だからだろうか、なんだか引っかかる。主家への忠義も、仇討ちの心意気も、理想があって現実でない。もちろん、歌舞伎で描かれる「武士」と言うのは美化されてはいるが、しかし、本物の武士が闊歩していた江戸時代と、その名残のある明治時代と、記憶も遠く成り果てた昭和の新作歌舞伎では、やはり美化のされ方が違うんだろう。うーん…なんだか……ねぇ………面白くは…あったよ?

 幸四郎さんの助右衛門は血気盛んな若者だったし、孝太郎さんの江島は「絵島生島」納得の御祐筆だったし、小川大晴くんはとっっっっっっても可愛らしかった。歌六さんの新井白石とにざ様の綱豊との会話は、全く動きがないのに目を離せない凄みがあった。人間国宝だけの空間…すごい…うん。ほら、面白くはあったよ!!

 ……この感じはなんだか近松見た後みたいだなと、そんなことを思った御浜御殿綱豊卿だった。

 

おわりに

 片岡仁左衛門丈、尾上菊五郎丈、中村歌六丈が見られる、人間国宝詰め合わせパックのようだった三月大歌舞伎。寺子屋で号泣し、道成寺で賑やかな常磐津を浴び、忠臣蔵で贔屓を浴びた三月大歌舞伎。やっぱり観劇は楽しいし、歌舞伎座はパラダイスだ。

 新年度になったら、恐らく、もっともっと忙しくなる。気ままに観劇は難しくなるだろう。それでも、生の演劇を浴びて洗い流された気持ちになりたいと、いつだってそう思ってしまうなぁと、そんなことを思った。出来ることならずっと、贔屓を追いかけていたい。

混沌ハムレットの感想

 

はじめに

 私は普段、小劇場に行くことや地方劇団を見ることはあまりない。「普段」というのは相対的な話で、月イチペースで観劇遠征をする私にとって、3ヶ月に1度あるかないかの小さな観劇は、割合が少ないという意味である。先輩方の公演に行くのも、贔屓の公演を見るのも、推しの舞台を見に行くのも等しく楽しい。私は、作られた世界を見るのが好きだから。だから演劇部に所属をしているわけだし、物書きのまねごとをするなどもしている。

 さて、今回のブログは、はまかるエンゲキヴ第5期成果発表公演『混沌ハムレット』の感想である。このブログが多くの知人の目に入ると思うと、顔から火が出るようだが、これは大切な友人達の頑張りに向けた贈り物として書こうと思い立ったものなので、私の羞恥心など道端の小石のように無視されてしかるべきだ。

 このブログでは、基本的に手前勝手な感想をつらつらと述べていく。だから詳しい説明は省くし、間違っていることもあるだろう。このような稚拙な文章では書き表せないことも多いだろうが、暖かい目で見ていただけると幸いである。

基本情報

『混沌ハムレット

原作:ウィリアム・シェイクスピア

演出・構成:脇田友(スピカ)

演出助手:酒井優美
舞台監督:筑田明心
照明:山本五六
音響:中村有里
衣装:井口真帆
宣伝美術:ひゆ–
制作:井口真帆/筑田明心/安藤こず恵/日向花愛/北澤あさこ
出演者写真撮影:脇田友
稽古場記録撮影:西川史朗
技術協力:磯﨑真一

出演:住友快吏 河地恵佳 橋本空 宮本有利 本庄紫朱希 いろは 伊藤匠海 
   大谷佑真 青木雅浩 岸田志緒理 甲佐菜穗子 新谷晃生 辰巳佳穂
   中沢玲美子 東航平 古川智葉 宮部素直(順不同)
※以上敬称略
はまかるエンゲキヴ第5期成果発表公演
時・2024年1月13日、14日
於・長浜文化芸術会館

hamacul.or.jp

感想

 『混沌ハムレット』(以下ハムレット)は、17人の役者がAチーム、Bチームに分かれて役替わりで公演を行うものである。よって、ここでもA・B両方の感想を綴っていきたい。が、まずは全体の感想から述べていこうと思う。

全体を通して

 私は、悲劇が好きだ。もちろん喜劇も好きだが、悲劇の方が好きだ。やりきれない感情に涙し、それでもまた見たいと思ってしまう不思議な魅力に取りつかれている。だから、シェイクスピアは大好物だ。ちなみに、日本のシェイクスピアと言われるのは近松門左衛門だが、私はそこにいささかの疑問をいだいている。確かに近松は偉大だが、悲劇の傾向的には河竹黙阿弥の方が近いのではないかと思うからだ。だけど、これは、多分、うん…私があんまり近松を好きじゃないからだな……。

 話がそれた、元に戻そう。

 シェイクスピアは、今から400年以上も前の人間で、つまりは作品も400年前のものだ。それが今に続くまで上映され続けているわけだから、その数だけ演出の違いがある。ロックオペラもあったし、確か宝塚でも何度か上演されているが、演出はそれぞれ違っていると記憶している。どこに重点を置くか、どれを強調するか、どう表現するか。それは演出の数だけあるのだと思う。

 今回の『ハムレット』は、いわば短縮版だ。公演時間は90分だが、私の知る限りシェイクスピアの上演は2時間を優に要する。30分以上、何を縮めるのかと思ったらなるほど、ハムレットがイギリスに流される道中でノルウェー艦隊と遭遇するくだりがなかったし、友人であり裏切りでありハムレットに殺されるローゼンクランツとギルデンスターン、それに鍵を握るノルウェー王子フォーティンブラスが登場しなかった。友人()であるローゼンクランツとギルデンスターンの役割は、バナードとマーセラスに引き継がれていたが、フォーティンブラスに関しては影も形もなかった。これは、少しだけ寂しく思う。私の思う「シェイクスピア悲劇のテンプレート」は、敵対する二人の人物、ないし二つの集団があり、それらが血で血を洗う殺戮の末に共倒れし、最後に第三勢力が漁夫の利を体現する。と言うものである。だから、最初の場面で「ノルウェー王が不穏な動きをしている」と言う趣旨のセリフを伏線として、誰かが現れやしないか、と思ったが期待は淡く散った。しかし、「ハムレット王子の遺体を上へ」のセリフを放ったホレイショ―が、ノルウェー王子の代わりなのだろう。これは『混沌ハムレット』だ。為政者の誰もいなくなった『混沌』のまま終わるので、正解なのだと解釈する。

 と、このようにハムレットは、要点を抑えわかりやすい構成になっていた。言葉も優しい。シェイクスピア特有の難解で複雑怪奇な言い回しも、何を指しているのか大変にわかりにくい代名詞も二人称も、柔らかく理解しやすいものになっていた。しかし、原作の不気味さは損なわれていない。重厚な舞台装置があるわけでもなし、技巧を凝らした大道具が鎮座するでもなし、絢爛な衣装があるわけでもない。それでも、奥行きのある舞台になっているのは本当に素晴らしいと思う。札束で殴ってくるような歌舞伎や宝塚や東宝も好きだが、工夫をこらして必要最低限で作り上げられた世界も好きだ。

 最も感動を覚えたのは、オフィーリアの死の場面があったことだ。原作にあってはガードルードのセリフにしかないその死が、ミレーの絵画のような美しさで表現されていた。人と音響で溺れ死ぬさまを表現したのは天才の所業だ。尼寺よりも清らかな場所に行ったオフィーリアの悲しさが、良く表れていたと思う。その直後の「レアティーズ!レアティーズ!」という民衆の叫びと、それを切り裂くような兄の怒りが、物語が急転したのだと示すのもとても良かった。

 そして、『混沌ハムレット』一番の特徴である「アンサンブル」の存在。亡霊が複数に分かれ、ハムレットを取り込まんとせんばかりに圧をかける様子は、不気味以外の何物でもないし、そこにいるのは先王ハムレットではなく、ただの妖怪のような気さえしてくる。亡霊になり、旅芸人になり、城役人になり、民衆になり…と、役者は大変な苦労を重ねたことだろう頭が下がる。これが、普段じゃれあっている友達の偉業だと思うと、下がった頭は大地にめり込む。本当にお疲れ様やで。今度ご飯とカラオケ行こな。

 シェイクスピアの根底には、キリスト教がある。深く、根付いている。カトリックを嫌った大英国教会を強く支持したエリザベス朝期の作品ではあるが、それでもキリスト教キリスト教だ。聖書に依拠している。兄殺しを悔やむクローディアスは、人類最初の殺人を犯したカインと重なる。ハムレットの仕掛けた劇を見て「怒り」そして「顔を地に伏せた」のは、カインの行動と重なる。*1ハムレット』において、クローディアスはカインだ。だから、ハムレットは七倍の復讐を受けた。「だれでもカインを殺すものは七倍の復讐を受けるでしょう」という神の言葉*2の通りに、クローディアスよりも苦しんで死んだ。その葛藤が、苦しみが、とてもよく表現されていた。私は、人よりは多少聖書を知っているとは思うが、熟知しているわけではない。が、やはり知ると知らざるとでは楽しみが変わってくるので、西洋古典に触れるときはぜひキリスト教の存在を意識してほしいと思う。

 短縮版であっても、充実の観劇だった。

Aチーム

 ここからはそれぞれに分けての感想を書いていこうと思う。まずはAチームだ。が、私はAチーム観劇後の感想を辛く書いてしまったことを少しだけ後悔している。強い言葉を使ってしまってごめんよ…と最初に謝っておく。

 さて、Aの様子を一言で表すなら、「激情」であるように思う。感情を爆発させ、とにかく強く、強くぶつけていく。感情に突き動かされるように叫ぶハムレットを筆頭に、100%の感情で表現していた。だからこそ、「役者が演じている」のがよく見えた。これは、Aに知り合いが多かった私の事情もあるかもしれない。しかし、役の奥に役者が見えたのはAの方だ。初日の一回目で少し空気が硬かったものあるかもしれないが、全体の緊張が客席まで伝わってきたようにも思う。だから、Aを一回目だけをみてその真価を評価できるとは思わない。きっと、二日目はもっと良くなっていたのだろう。ただ、私は一度しか見られなかったので、そこが、心残りだ。

 人間は、常に100%の感情に支配されることはない。複雑な感情がないまぜになって存在している。けれど、Aチームはそのほとんどが100%の感情に突き動かされていたので、やや平面的に思えてしまった。しかし他方で、1つの気持ちに集中できたのは良かったと言える。特に、ハムレットには狡猾さがなかった。だからこそ、ハムレットにおいてハムレットが嫌いな私はAのハムレットを受け入れられる。「尼寺へ行け!」とオフィーリアに叫ぶ場面。そこには「女」に失望したハムレットが、愛している女性だけは清廉でいて欲しいという思いから「世捨て人になって教会に籠れ」と突き放しているようにも思えた。

 Aのハムレットは、ハムレットと言うよりはオイディプス王のようだった。このまま自分の眼球をえぐり出してしまうのではないかと思うほど、母を嫌悪し、其の血が流れる自分を嫌悪した。それでも、母にだけは従うというマザコンぶり。救えない。やっぱりお前なんか嫌いだ。

 ホレイショ―は理知的で学者であるというのがひどく腑に落ちる演技であった。ハムレットに寄り添い、支え、確かな忠義心を持って後を追おうとするさまは忠臣のそれである。そんなホレイショーに優しいハムレットの様子も良かった。

 オフィーリアは可憐であったが、特に狂人となった後がすごかった。一点を見つめ続ける狂気に満ちた目。空っぽな心が漏れているような歌。そして、柳に花輪をかけるときの歪んだ笑顔。オフィーリアがそこにいた。

 ガードルードは、「弱い女」の結晶であるように感じた。ただ、そこにいるだけの王妃のようであった。細い声も、揺れる瞳も、意思を持たないようでゆらゆらとたゆたっていたように感じた。それでも、最期の一言、どんなになじられても変わらない「私の可愛いハムレット」の言葉には、母を感じた。それまで王妃であり妻であったガードルードの、唯一母である瞬間であったと思う。

 マーセラスとバナードはニコイチだ。兵士であるが、その役割として原作にあって本作にはいないハムレットの友人の要素も足されているので、登場も多いし印象的だ。何より、バナードの一言で舞台が始まるその責任は重い。だから、バナードは重要だ。墓堀であることにも意味があるように思う。完全に人格を奪われたわけではないアンサンブル。彼らは賎民であるから王子の顔を知らない。だからハムレットに死を示せる。

 レアティーズには、一番心を震わされた。父を、妹を失った悲しみと憎しみを剣に込め、騎士道を捨てて背後からハムレットを襲う。死の寸前で王を糾弾し、死を受け入れる。彼岸に会いたい人がいる者の、あきらめのようにも感じた。

 ポローニアスは秀逸だった。腰巾着の様子も、娘に忠告する様子もすべてが地位のため家のため。見事な日和見で、雑に死んでいく様子は哀れだった。物事を上辺でしか見ないから、死ぬことになる。

 クローディアスは、唯一AもBも役が変わらないが、これは一度見たらなるほどと頷けるだろう。クローディアスを演じるにおいては、青木さん以外には考えられない。中間発表の時点で、完成されたクローディアスを見た私はずっとそう思っていたが、今回の役替わりを見てより強く思った。AとBで、若干の変化があったように思う。それぞれの空気に合わせたクローディアスがあった。Aにあっては欲にまみれた暗愚を強く感じたが、Bにあっては様々の感情を内包する悪を感じた。意識してか、せずか、どちらにせよ雰囲気の違うA・Bで同じ役を務めるというのは大役だ。筆舌に尽くし難い。

Bチーム

 先に言う。私はBの方が好きだった。これは、完全に私の好みであるので他意はない。友達のことは大好きだし、後輩は可愛いけど、全体の雰囲気が好きなのはBだ。各々の突出した角が集合して円になっているようなのがAなら、それぞれが点を置くことで円を作っているようなのがBであると思う。だから私はBが好きだ。100%同じ感情では無いことに、強く人間を感じ、役を感じ、舞台に没入できた。

 Bのハムレットは、内からふつふつと湧き上がる感情を、体で押しとどめて喉から絞り出しているようだった。叔父貴を睨む鋭い目、母を責める鋭い言葉。為政者の情と非情をわきまえ、民にも慕われている。まさに「王と為られていたら名君になられたお方」だ。これが、私が嫌いで嫌いで嫌いで仕方がない原作のハムレットだ。

 ホレイショ―のよく通る声は、ハムレットの意思のように迷いがなかった。Aとは違いハムレット対等で、主従の関係はあれど固い絆で結ばれている。ハムレットのしの間際でも、慌てつつも取り乱しすぎず、殉死か語り部か、生きるべきか死ぬべきかを迷い、そしてハムレットの逆を行ったのが綺麗な対比になっていたと思う。

 オフィーリアはさすがの一言に尽きる。声通るなぁ…。Aと同様、やはりオフィーリア役の真価はその狂気をどう表すかにあると思う。この点に関して本当に良かった。あんな妹の姿を目の当たりにしてしまったら、私がレアティーズでも王を切り刻みに行くだろう。

 ガードルードは、Aとは全く別で、強く母を感じた。ハムレットの地位を守るためにクロ―ディアスと結婚したのだと思わせるものがあった。ハムレットの目には、情欲に溺れる売女に見えたとしても、私の目には強い母に見えた。王妃を全うし、国母を全うして、そして死んだ。このガードルードは、きっとクローディアスを憎んだことだろうと思う。

 マーセラスとバナードは、これまたニコイチだ。Aよりもハムレットの友人で会ったが深くはない。忠誠もきっと薄いだろう。墓場での下賤さは、まるで別人だったが、その卑しさがハムレットの身分の高さを際立たせていたように思う。

 私が、このハムレットで一番心奪われたのがこのレアティーズだ。内に秘める激情も、さらけ出した憎悪も、届かない凡庸さも、醜い執念も、全部を感じられた。妹を思う優しいまなざしが、王へ、そしてハムレットへの憎悪に代わったときは鳥肌が立つ思いだった。強い。強くて脆い、騎士道精神にあふれるレアティーズが好きだ。

 ポローニアスは、これまた狡猾な宰相だった。クローディアスにへこへこして、日和見で、保守的。保身に走ってそして死んでいく様子は、ハムレットに詰られるのも頷けるような清廉の真逆にいる人物であったように思う。私は、Bのポローニアスが好みだが、イメージに合うのはAであったようにも思う。甲乙はつけがたい。

まとめ

 全体、A、Bと簡単に感想を述べた。書ききれていないことも多いが、一番に思い浮かんだことを書いた。これ以上長くなっても読むのに骨が折れるだろうし、友人には後で直接言葉でも伝えようと思う。勝手に加筆修正されることもあるかもしれないが悪しからず。一発書きの性だと思って目を瞑って欲しい。

おわりに

 2024年最初の観劇が『混沌ハムレット』で良かったと思う。2023年は、毎月舞台を見て、一つ一つ数えたら20公演近くを観劇したことになったので驚いた。……チケット代のことを考えてはいけない。2024年も同じくらい観劇するのは、きっと難しだろう。悲しいかな就活生。立ちはだかる卒業論文。そう、私は必ず、今年、卒業しなければならない。だから、ひとつひとつを充足させていきたい。その一つ目がハムレットで、良かったと、そう心から思う。

 関係各所の皆様におかれましては、このような素敵な舞台をありがとうございました。トッモ、及び後輩、そして尊敬すべき先輩方へ、とっても大好きです!

*1:創世記4:5

*2:創世記4:15

下書き供養2022年の遺物編②

2022年10月9日 宝塚大劇場 雪組公演 蒼穹の昴 ソワレ

はじめに

ムラはやっぱり、特別な場所だ。

2015年12月某日、雪組の『哀しみのコルドバ』を初観劇して以来、緩やかな在宅オタとなった私はこの度、ヅカオタ研8にして初めてムラに足を踏み入れた。

「ムラ」そう、それは宝塚ファンが、宝塚大劇場およびその周辺を指すときに用いる語である。阪急宝塚駅を降りてから先に広がる、宝塚一色に染まった街並みは、ため息が出るほどに美しい。軒を連ねるどの商店にもジェンヌさんのサインが飾られ、花のみちを歩けばおとぎ話の世界に紛れ込んだかのような錯覚に陥る。歩くだけで胸が躍り、大劇場に近づけば近づくほど足どり軽やかになる。そんな、全宝塚ファンが夢を見る場所だ。私はこの日を、今か今かと待ちわびていた。

今回のブログは、そんな記念すべき公演である雪組本公演『蒼穹の昴』の観劇感想ブログである。

(↓私の宝塚観劇の出発点。アマプラにて550円で7日間レンタルできるのでぜひ)

基本情報

グランド・ミュージカル

蒼穹の昴』~浅田次郎作「蒼穹の昴」(講談社文庫)より~

脚本・演出 原田諒

主演 彩風咲奈(雪組トップスター) 朝月希和(雪組娘役トップスター)

雪組公演 『蒼穹の昴』 | 宝塚歌劇公式ホームページ (hankyu.co.jp)

(↓原作小説第一巻)

感想

「めっちゃくちゃ泣いた…ハンカチが追い付かんバスタオル必須…贔屓が…ご贔屓が美しかった…え~ん最高…待って無理ギャン泣き…うぅぅ…ご贔屓が美しかったので、今日も世界は平和です…」

この偏差値3もないような文章は、終演直後のふやけた頭で大量投下された私の能直ツイートの一部だ。

びっくりするくらい泣いた。その日降っていた大雨に負けないくらい泣いた。それほどの傑作だった。心から感動した。迷わずお手紙をしたためてしまうほど、素晴らしい作品だった。ただ、欠点もある。

小さな不満

正直言うと、私は今回の本公演が発表された当時は、少々不満があった。浅田次郎氏の大作が原作であり、壮大な清朝末期の世界観をどのように表現してくれるのか、非常に楽しみであったが、「一本物であると言う点と、娘役が目立たないのでないかと言う点に於いて、不安だった。

今作は、2022年6月13日に退団を発表した雪組トップ娘役・朝月希和(愛称ひらめ)さんの、退団公演である。にもかかわらず、一本物ではサヨナラショーはあっても公演としてのショーがないではないか!と。加えて、集合日であった2022年8月18日に退団を発表された、副組長の千風カレンさん、羽織夕夏(愛称なっちゃん)さん、花束ゆめ(愛称ブーケ)さんは全員娘役さんだが、皆さん突出して目立つお役ではない。……悲しい……こんなに娘役さんが目立たない作品だったなんて……そんな……ほとんどの娘役さんが「西太后付きの女官」だなんてそんな…殺生な……という思いが、胸の奥で顔を覗かせた。

公演に携わる専科さんが大勢いらっしゃることから、今作品は超大作になるのだろうとは思ったが、それにしたって娘役さんが不遇すぎる。少しくらい不満に思うことくらい許して欲しい。

実際、娘役さんたちは、そのほとんどが埋もれてしまっていた。目立っていたお役としては、物語の中心である西太后、ヒロインである李玲玲くらいだ。次期トップ娘役である夢白あやさん演じるミセス・チャンですら、全体から見れば、ほんの少しの出番しかなかった。確かに、長い原作小説をキュッとまとめるためには仕方のないことなのかもしれないが、いささか不満だ。宝塚のファン=男役のファンなわけではない。娘役ファンも納得できるような公演形態にしてほしいなぁなんて、ちょっと思ったりする。

けれど中身は、ここ最近の雪組公演のなかでも一、二を争う出来であると思う。傑作だ。

素晴らしいご贔屓様方

咲ちゃんが、とにかくカッコよかった!!!雪組トップスター彩風咲奈様はもう本当にめちゃくちゃカッコよかった!!!抜群のスタイルも、素晴らしい容姿も健在で、なおかつ、日々進歩されているのがひしひしと伝わってきた。本当に心から感動した。特に歌が日々上手になっているの本当に本当にすごいよ咲ちゃん!!1幕最後の銀橋での独唱に圧倒された。何度でも聞きたい…どちゃクソ感動した。

カチャ(凪七瑠海)さん…あまりにもさすが……スター専科ここにありですよ……渋くていい男すぎる最高の李鴻章…何あの男役芸…強すぎる雪組本公演にずっと居て欲しい()

すわっち!!諏訪ちゃん!!今日も一生懸命で可愛いなぁ…朴訥とした青年いいなぁ…溢れるエネルギーだなぁ……お芝居上手いなぁ……

そして大本命のそら(和希そら)くん!!そらくん素晴らしくかっこいいんだが????は???何あれ作画が2次元じゃんは????え??は??綺麗……歌上手い…ダンス最高…

失礼しました。文章が荒ぶりました。贔屓が素晴らしかったので世界は平和です。

 

 

(※以下、オタクの断末魔)

みんな大好き群舞がある……

基本セリフ劇かな?でも、宮廷の華やかな踊りがすごくいい上手い1幕最後の独唱が素晴らしい

内容的には詰め込みすぎかな?世界史を抑えてないと何が何だかな感じだと思う

 

諏訪ちゃん、今日も一生懸命で可愛いなぁ……

今日も贔屓が素晴らしいので世界は平和です

 


めちゃくちゃ泣いた……死ぬほど良かった……そらくん……そらくんも諏訪ちゃんも良かった……えーん

2幕開始早々にそらくんが死んで、終わりがけに諏訪ちゃんも死んで、あーさに泣かされて、まじでギャン泣きした

下書き供養2022年の遺物編①

下書きに眠っていたけど、これもう続き書けないや…ってなってしまったレポを放出します…ごめんなさい…

 

みんな我が子ーAll My Sonsー観劇レポート 『みんな我が”息子”』

 

 

2022年6月7日(火)ソワレ:18時開演

 

私は期待を胸いっぱいに溢れさせ、大坂・森ノ宮駅に向かう電車に揺られていた。

今年は1月から、舞台を中心に回っている1年だ。MURDER FOR TWO に始まり、既に6回の観劇を終えた。この『みんな我が子』で7回目となる。実にオタ活に終始している、充実した日々だ。

舞台は、1度踏み入れたら演者も観客も虜になる。板の上で様々な物語が繰り広げられ、その瞬間しか感じられない熱意が、情熱が会場を包み込む。舞台でしか感じられない空気感。得がたい経験。そこでしか見られない特別な景色。

剛くんはそんな、舞台の魔物に魅入られたのかな……なんて、ゆったりと田舎道を走る電車の中、V6のライブ映像を周回しながら、今から会いに行く森田剛へ思いを馳せた。

 

1月以来2回目の森ノ宮ピロティホール。満足するまで写真を撮ったら入場する。チケットを提示し、流れるようにパンフレットを買い、自席を探して座る。

場内は、開演前にもかかわらず、客電は抑えめであった。緞帳も下がっており『みんな我が子-ALL MY SONS-』の赤い文字が投写されている。最初から舞台装置を見せて観客に世界観を刷り込むと言うよりも、幕の中と外で世界を区切っているような舞台だなと感じた。

やや暗めの客電の中、買ったパンフレットに目を通す。ネタバレを踏まないよう注意しながら、キャストのコメントを流し読み、あらすじの部分を熟読する。

ある程度大筋を頭に入れ終わったら、双眼鏡の倍率を調整し、万全の体制を整えその時を待った。

18時。開演のブザーが鳴り響く。

幕が、開いた。

舞台上には、堤真一さん演じる、戦闘機会社社長兼ケラー家の父親であるジョー・ケラと、その隣人である医師・ジョンが、庭先で新聞を片手にゆったりと休日の朝を過ごしている。

そこには、1940年代のアメリカが広がっていた。終戦直後の、まだそこかしこに戦争の爪痕が残っている時代の雰囲気がある。

ケラー家で唯一戦場を知っている、長男のクリスから発せられた「これからは自分の人生を生きるんだ」という言葉には重みがあった。それまで、祖国のためだ家族のためだと自分の命を削って戦っていたクリスの「生」を語る言葉には、代えがたい何かがあった。

『ALL OF MY SONS』がアメリカで初演されたのは1947年。劇中のセリフからもこの舞台の時代設定は1947年付近であることがうかがえる。つまりここでいうところの『戦争』とは『太平洋戦争』のことである。

ジョーが、日本に飛んだ飛行機を作ってたんだ…

そのことに気づいた時、どうしようもなく苦しくなって、どうしようもなく涙が流れた。

結婚祝いに買ってやる、と言っている新しい冷蔵庫も、車も、あの大きな家も、雇われているらしいメイドも全部が全部、戦争特需で成った財産のたまものだ。ケラー家は日本人の血でできていると言っても過言ではないだろう。

1940年代の、アメリカだ。

登場人物全員から、戦勝国の余裕がうかがえる。復員してきたクリスだって、心の傷は深くても、大きな家があって財産がある。お寺の鐘ですら供出させていた日本とは雲泥の差だ。そう思うと切なくなった。

この舞台の主題の一つは『戦争』であると思うが、そのメッセージをより身近に、そしてより自分のことのように感じられるのは、アメリカ人ではなく日本人の方なのではないかと思った。

戦場を知っているクリスや婚約者の兄・ジョージに対して、戦場を知らないケラー家およびその隣人のや婚約者のアニーは、身近な人が戦場に行き命を落としたという傷を抱えながらも、どことなく他人事感が拭えない。ラリーの帰りを信じて待っている母のケイトも、ラリーの生死以外に興味はないように思う。家に爆弾が落ちてきた訳でも、近所が戦場になった訳でもない。「戦友が死んでいった。自分だけが生き残った。父さんは21人の友人を殺しておいてなぜそんなに平気でいられるのか」というクリスの慟哭や思いは、きっとブロードウェイよりも日本に響く。そう感じた。

すごい舞台だ。すごい舞台だった。

照明も必要最低限。明暗だけで朝・昼・夜を表している。目の前で怒涛の1日が繰り広げられているというのに大道具の表情は変わらない。ただ建物があり、倒れた木があり、イスがあり、テーブルがある。純粋に演技だけの勝負。セリフや立ち位置の間合いで行間を語り、醸し出す雰囲気で物語を進めていく。

最低限であったのは照明だけではない。音響もだ。郷愁を誘う不安定な曲調のメインBGMからは、この物語が内包する矛盾感や無常観がうかがえた。SEも最低限で、多くは役者から発せられる音で成り立っていた。森ノ宮ピロティホールはキャパが大きく客席も舞台も広い。以前見に行った『MURDER FOR TWO』の時はピンマイクがあったし、もっと狭い箱でも公演があった『Forever Plaid』でもピンマイクはあった。ミュージカルとセリフ劇の違いでもあるだろうが、それでもマイクなしではっきりと聞き取れるセリフには感動した。

派手な照明もBGMも衣装もない。それでも、セリフ劇特有の含みのある言い回しなどによって、物語に奥行きが生まれていた。あと1mmでも何かがずれてしまえば、すべてが崩壊してしまうような家族のもろさが、生々しくひしひしと伝わってきた。派手さがない分、むき出しの演技にすべてを込めている。そう感じた。

剛くんを見に行ったのに、他の演者さん全員にも好感を持った。全員が、それぞれで輝いている舞台だった。

森田剛。そう、私は森田剛の舞台を初めて見たのだ。

クリスが初めて舞台上に現れるその時のことは、はっきりと思いだせる。

彼は、片手に食べかけのパンを持ち、歩きながらそれを頬張り、そして何気なく庭に出てきた。そこには森田剛ではなく、クリス・ケラーがいた。

剛くんの演技を見るたびに思う。彼は天才だと。

あれだけ圧倒的なオーラを持つスーパーアイドル「森田剛」が、ひとたび演技となると完全に個を消し去るのだ。そこに「森田剛」は残らず、ただ「役」のみが存在する。1つのドラマ、1つの映画、1つの舞台。一度として同じものがなく、一言発する瞬間…どころではなく、一歩歩いたその瞬間から、世界の中から「森田剛」は消える。そして新しい人物が産まれるのだ。

それでも森田剛が演じている以上は、多少の癖なり言い回しの特徴なりが現れたりもする。が、そんなことは気にならない。他の点がそれを補って有り余る。

剛くんは43歳で演じるクリス・ケラーは32歳。相手役の西野七瀬さんは28歳で、演じるアン・ディーヴァーも28歳前後。クリスがちゃんと30代に見えたどころか、森田剛西野七瀬が同世代なのではないかと思うほどだった。実年齢との一回り以上の差を埋めるという演技力を形容するのに、私の語彙力はあまりにも乏しく『天才』としか言い表せない。

言わせてほしい。私が一目見て「あぁ、この人は天才だ」と感じた俳優さんは、森田剛が初めてだった。だから、剛くんがずっと演じてくれるということがすごく嬉しい。もっともっと、剛くんの舞台を見てみたい。

 

(※以下、書き殴りのメモ)

舞台上には常に、二律背反が存在した。男と女、妻と夫、父と母、親と子………。

 

家の庭で1悶着

 

距離感がきちんと図られている感じ

 

家族なのに他人のよう

 

よそよそしい

 

結婚の挨拶の傍らには破壊された木がある

 

舞台上は常に二律背反

 

 

本音と建前

 

それぞれがそれぞれの事情を抱えていそう

 

不穏な空気を存分に孕んだまま、真相が明かされる第2幕へ

 

クリスはイエス

これは、アメリカ的キリスト教アメリカ的資本主義の矛盾を描いた話だ

 

クリスはイエス

でも、ジョーにとってのイエスは二人いて、ジョーはイエスを引き寄せることが出来なかったから旅立ったんだ…

 

三位一体論

 

我が子を殺す父親はいない

 

じゃあ、神は?ヤハウェはイエスを見殺しにしたそういうことだ

 

 

まさかこれが、1日の出来事なんて

信じられない

 

すごい

 

すごい舞台だ

 

 

慟哭が、それぞれの慟哭がすごく響いた

 

剛くんの叫びは胸を打った

 

鳥肌

 

鳥肌

 

個人的に、『みんな我が子』は誤訳だ。『息子』にすべきだなぁって思った。

 

カテコは4回。3回目にごぉくんがペコってお辞儀したのごぉくんで良かった

 

 

多分、植えられた木がりんごの木ってことにも意味があるよなぁ……そうだよなぁ……禁忌だったんだ……禁忌なんだよ……

 

クリスだけが、パンとジュース飲んでた!パンと!ジュース飲んで………あぁ………最後の晩餐…

 

『サカシマ』つまり道理に合わないこと、背くこと、あえて外れること

はじめに

このブログを読んでいる人の中には、リアルの私を知っている人も多い。だからあえて公言するが、私は大学で演劇部に所属している。まあ、こんなにも観劇に勤しんでいる様子を眺めている読者様方なら、そう驚くことでは無いかもしれない。

さて、今回のブログに綴ろうとしている『サカシマ』は、私が直接見た舞台では無い。部活動の中で触れ、そして激推しされたので読んでみた脚本であり、舞台映像を見た作品である。

だからこの感想は、作品を薦めてくれた後輩に送るつもりで書く。

脚本のデータも舞台映像も、全てインターネットに無償公開されているが、私はとにかく初見の感想を大切にしたい人間であるので、ここで頑なに初見での感想を綴っていこうと思う。

改めて断って置くが、これは単なる感想であるし個人的見解である。あらすじを紹介するものでは無いがネタバレはある。

まあ、後輩が読んでくれたらそれでいいのでね。ネットには流すけれど、大勢に向けたものではないことを理解して欲しい。

 

基本情報

『サカシマ』

作・演出 斜田章大

出演(敬称略)  仲田瑠水  瀧川ひかる  八代将弥  芝原啓成  伊藤文乃  いば正人  藤井見奈子

2019年廃墟文藝部第六回本公演

千種芸術小劇場にて初演

廃墟文藝部第六回本公演「サカシマ」 - YouTubeyoutube.com

サカシマ | 作品 | [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブplaytextdigitalarchive.com

 

感想

脚本について

まず、謝らなければならないことがある。私は最初に些細な嘘をついた。舞台映像を見たのは1度きりだが、脚本を読んだのは1度では無い。だからこれは正確な初見の感想とは言えないが、通して読んだのは1度きりなので、グレーゾーンという事で許容して欲しい。

私が『サカシマ』に出会ったのは、部活動の中でのことだ。だから、脚本を先に読み終えてから映像を見るという、なんだかあべこべな出会いをしている。内容を熟知した上で舞台を観たし、映像の想像がつかないまま脚本を読んだ。

そりゃ、シェイクスピアチェーホフに触れる時は、舞台を観ないまま脚本を読むことも多々あるが、現代劇ではそうそうない。新鮮な体験だった。うん、もっとこのような機会を増やしてもいいかもしれない。とても楽しかった。

『サカシマ』は抽象劇である。主人公の日野陽毬が地上100mの高さから降り注ぐ約5秒間の走馬灯を描いている。だからこれは、夢のような作品だ。ここで言う「夢」とはもちろん、明るく希望に満ち溢れた思い描く未来や希望のことではなく、寝る時に見るようなあやふやで掴みどころも脈略もない「夢」のことである。

読者様は京極夏彦を読んだことがあるだろうか?または泉鏡花や、夢野久作を読んだことはあるだろうか?そのどれかや、または類似の作品を読んだことがあれば伝わりやすいだろう。幻想的に描かれた「夢」のような作品は、気味の悪い美しさを内包する。自分の価値観からかけ離れた物語なのに、どこか自分と通ずるものを感じる。それは舞台設定や考えや状況でもあるだろうし、時に、具体的には分からないものでもあるだろう。そんな、足場も地面もないような世界でたゆたっていると、奇妙な感覚に陥る。不協和音を美しいと思う瞬間が生まれるように、欠落しているものが美しく見えるように、気持ちの悪いものが綺麗に思える。

『サカシマ』は、そんな作品だ。

小説を読んでいるかのような文字量、文章量。朗読劇かのような長ゼリフ。ぐちゃぐちゃな時系列に繰り返される場面。読んでいるだけで混乱する。それでも整合性が取られ、伏線は回収され、残酷な結末は美しくもあり、無駄が一切ない。綺麗だ。綺麗な脚本だった。

綺麗なものは大好きだ。だから、抽象劇は好んで観ないが嫌いでは無い。どちらかと言えば、型通りの様式美を最上の美と感じる私は、不安定で「夢」のような世界が展開される抽象劇を積極的に観ようとは思わないし、自分に書けるとも思わない。それでもやはり、触れれば楽しいし、奇妙な世界は面白い。これは、その作品が綺麗に作られているからだろう。美は正義だ。

脚本とはつまり、舞台の構成要素の根幹だ。脚本がなければ舞台は存在しない。けれど脚本だけでも世界は表現しきれない。だから、作品の本質は脚本を読んだだけでは分からない。

特徴的なト書も、同音意義語も、動きにしなければ分からないし、言葉にしなければ伝わらない。だから戯曲を読むだけで作品を理解した気になってはいけないんだ。それはどんな作品にも言える。

ただ、『サカシマ』に関しては脚本の時点で芸術性が高かった。読んでいるだけでも楽しかったし、鳥肌が立った。これは確かに、賞を取れる本だ。

一番最後、大詰めも大詰め幕切れの瞬間のト書。

物音か。気配か。

ふと、彼は頭上を見上げる。

空から、

                                 サカシマFin

「天才だ」と思った。日野陽毬の決死の特攻の結果を読点1つで表現している。

他にも、このような技巧が散りばめられていた。

 

出演者全員で声を揃えるところがある。男性キャストで声を揃えるところがある。女性キャストで揃えるところがある。100から1つづつ減っていく数字に関連してセリフが始まる。目まぐるしくセリフが飛び交う。静と動が混在している。

様々な楽器を用いて世界を表現する、作曲家のような所業だと思った。いや、作曲家も脚本家も世界を表現することに大差ないのかもしれない。その記号が文字か音符かの違いがあるだけだ。とすると、演出家は指揮者と同義だろう。世界を創り出すのが「神」たる作者なら、世界に形を与えるのが「使者」たる演出家だ。

脚本に一通り感じ入った後は、映像を見てさらに感動するだけだ。脚本家が創った世界は美しかった。演出家が表現した世界はどのようなものであるだろうか?

映像について

円形舞台の歴史は古い。古代ギリシアには既に存在し、そこでは戯曲が上演された。コロッセオだって、巨大な円形舞台だ。だから演劇人が円形舞台を好むのは必然だと思う。西洋演劇に感化された人なら特にそうだろう。

『サカシマ』も、円形舞台であった。客席は2箇所に別れていたので、映像だけを見た私としては、観客が野次馬のように観衆のようにして舞台に参加しているような印象を受けた。

丸い舞台に等間隔に置かれた12個のブロックは、時計の文字盤と同じ位置に配置されていた。つまり、円形舞台は、円形のアナログ時計を表しているのだろう。そこをぐるぐると回っている演者は針だ。それ以外の全ての演者が時計回りに歩く中、日野陽毬だけは反時計回りに歩く。その陽毬に干渉する人が現れたら一緒に反時計回りになる。ほとんどの場合、時計の中で陽毬に干渉するのは、姉の日野灯里であった。「この舞台は『サカシマ』だから、自由に時間を行き来できる」という灯里の言葉通り、時間は交差した。それと共に、演者も散らばり、交差し、めちゃくちゃに歩き回った。やはり人格を奪われた演者は時計の針だ。

舞台はブロックの外側と内側で分けられ、ブロックに座っている演者はそこに存在しないものとして扱われた。袖がほぼ存在しないので、退場もほとんどない。時たま、ビルの上を表現するために、正面から見て奥の方に2階部分に設置された場所から演者が現れていたが、ケレンがあったのはそのくらいだ。

光が当たっている部分で話しているのが、「今」の登場人物であり、それ以外は全てアンサンブルと言っていいかも迷うくらいのガヤに過ぎない。暗転しようものなら会場は漆黒に包まれ、一抹の不安すら覚える。

音響はキッパリ別れていた。BGMがある時は亜空間。BGMが無い時は回想。大詰めで、唯一環境音がした時は感動した。この舞台において、唯一の現実世界が最後に人見康介がタバコを吸う場面であり、彼の死の直前なのだ。

開演と同時に、空から卵が降ってきた。ロックだ。生卵を食べ物としてではなく小道具として使う。私はこの点に関してもったいないことするなぁと思ってしまう貧乏性だが、表現したいことも、やりたいことも分かる。

落ちた卵は日野灯里だ。

卵は、命になりきれなかった命だ。そこには鶏1羽分になるはずだった欠片が詰まっている。卵が降り注ぐことは、命が降り注ぐことだ。だから、日野陽毬は卵を目指して落ちていくし、卵として降り注ぎ、全てのきっかけである日野灯里だったものを中心に舞台が動く。

走馬灯というものを、私は見たことがない。いや、本当の意味での「走馬灯」はテレビで見たことがある気がする。が、「死の直前に人生が走馬灯のようにめくるめく」という意味での走馬灯は見たことがない。よって、これが真に死の直前に起こる現象だとは言いきれない。恐らく、ほとんどの人がそうだろう。

だから、20歳から0歳に飛び、10歳に飛んでまた5歳に戻る。気づいたら19歳で、また20歳の自分がいる……なんて状況はカオス以外の何物でもない。が、これが走馬灯なんだと言われたら、そうなんだろうと納得してしまう説得力がある。

「この舞台には、無駄が一切ない」と前述した。このことは意見が別れるかもしれない。何度も同じ場面、セリフを繰り返すのは無駄だと思う人もいるだろう。しかし私はそうは思わない。

この舞台は、流れるように進んでいく。押し寄せ続ける波のように、怒涛の感情が渦巻く。立て板に水の如くまくし立てられるセリフは聞き取るだけで精一杯になってしまう部分もあり、なかなか理解までたどり着けない。つまり、真剣に集中していなければ聞き流してしまうセリフに溢れているという事だ。だから、重要なセリフは繰り返さなければならない。重要な場面は繰り返さなければならない。そして、繰り返されることはこの舞台にとって必要な事だ。

『サカシマ』は日野陽毬の走馬灯だ。だから陽毬の心に深く根付く言葉や場面は繰り返されて然るべきだ。繰り返されることによって感情が刷り込まれ、観客は陽毬と同化していく。

99.98.97.96.95………と、100からカウントダウンされた数字が、スクリーンに見立てられた床をよぎっていく。脚本では分かりにくかったが、この演出であればすぐに気がつく。数字は、今、陽毬がいる地上からの距離だ。この数字が0になったとき、この舞台は終わる。それが名言されるのは50になった時だが、それ以前に気づける機会が演出から与えられている。空間を割くように出現した数字を声でさえぎって走馬灯に戻る。よく考えられた舞台だ。感嘆する。

舞台上で何度も吸われたタバコも、中心にあり続ける卵も、何もかもに無駄がなかった。

計算され尽くした脚本に、緻密な演出。

あぁ、綺麗だ。綺麗な舞台だ。だから、好きだ。

考察

現時点で5000文字にさしかかろうとしている今回のブログだが、ここまで来たら最後までお付き合い願いたい。このままでは、過去最大の文量になってしまった『凍える』の観劇レポを優に超えてしまう。が、どうしても書きたいんだ、考察を。筆の乗ってしまった愚かな筆者をどうか許して欲しい。このまま続けよう。

日野陽毬

高く、硬い壁と、そこにぶつかって割れる卵があれば、私は常に卵の側に立つ

たとえ、どれほど壁が正しくて、どれほど卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つ

という、村上春樹のスピーチが最初と最後に登場する。舞台冒頭、日野灯里は卵として降ってくる。そう、「卵」が何を示しているかは明白だ。圧倒的な何かにぶつかって砕ける存在。その代表が日野陽毬である。

陽毬は、傷つきやすくて純粋な、守られて育った女の子だ。姉を殺した「何か」に対して怒り、憤っている。姉が死んでから狂い始めた全ての歯車の中で、自分だけは正常でいようと、5歳で出会った占星術に縋る。正誤は問わず、ただルーティンと化したその作業をこなすことで1週間の長さを知り、自分は大丈夫だと安心する。その唯一の命綱が姉を殺したのだと知った時、陽毬の全ては失われた。

そうなる以前にも、雑音がないと眠れない様子や、両親との会話に一切の感情がない様子を見れば、陽毬の心がとっくに壊れていることは自明だ。それでも正常であろうとする陽毬は、間違いなく日野灯里の妹だ。

人見康介を憎みながら「日本メンタルヘルスライン」の電話の受け子をする。そこに母親が電話をかけてきても、思っていたより愛されていなかったのだと知っても揺るがず存在し続ける。だって日野陽毬は、姉を殺した「何か」を探すためだけに存在しているのだから。

だから目的が達成された時、彼女は真っ先に「灯里を殺したやつ」を殺す事にした。つまり、自分と人見康介を殺すことにしたんだ。

揺るがぬ信念を持った人は、存外に脆いものだ。と言うのは私の持論だが、陽毬にも同じことが言えるだろう。何もかも失った陽毬は、最後に父親の遺言を達成するために降り注いだ。8月にこの国に落ちた「太陽」のように降り注ぎ、人見康介に特攻した。たった1人の、大切な姉・日野灯里の敵を討つために。

日野灯里

灯里は、作中で唯一、ずっと死んでいる。死んでいる存在だから、灯里は登場人物の中で唯一、亜空間の陽毬に接触できる。

いや待て、回想にも登場するし、陽毬が灯里の死の真相を知る場面では初めて生身の「日野灯里」が登場するじゃないか!と言われるかもしれない。が、やはり日野灯里はずっと死んでいる。

なぜか?

それは、「日野灯里の死」が物語のきっかけであり大前提であるからだ。「最初に落ちた卵は、日野灯里の隠喩である。」という自論を、私は譲らない。

灯里は劇中のほとんどで「怒って」いた。泣きじゃくる陽毬を前に「泣いてないで怒りなさい」と言って怒っていた。

だって悪逆は許せないでしょう陽毬、理不尽は許せないでしょう陽毬、非合理は許せないでしょう陽毬、無秩序は許せないでしょう陽毬

と。

思い出して欲しい。この劇は「日野陽毬の走馬灯」である。時系列がぐちゃぐちゃだから忘れがちになるが、この作品は日野陽毬が最期に人生を振り返る物語だ。これは、全てが終わった時点で全てを振り返る話だ。

「姉が道ならぬ恋に落ちて死んだ」ことを知った陽毬の脳内で「悪逆も理不尽も非合理も無秩序も許せない」と怒る灯里は、本当に正義感の強い人間だったんだろう。

だから死んだんだ。

正義感も責任感も強い灯里は、既婚者を一方的に愛してしまったという、小さな片思いすら許せなかったんだ。

そんな灯里を、人見康介はわざと飛ばした。

人見康介

ひどく不快な男。ひどく気持ち悪い男。ひどく苛立たしい男。生まれて初めて殺してやりたいと思えた男

陽毬の、人見康介に対する第一印象だ。

散々な言われようだが、言い得て妙である。こいつは、真性のクズ。カスみたいなクソ野郎と言い切ってしまってもいい。こんなヤツに惚れた泉水の気が知れない。……泉水はまだ登場してないじゃない。って?うん、そうだね。このブログはサカシマではないので、ひとまず順番に行こう。

カスみたいなクソ野郎が登場する作品には慣れているつもりだ。歌舞伎は基本的にそんなヤツらで溢れてる(過言)。でも、人見康介は歌舞伎に出てくる奴連中のようなクソ野郎では無い。どちらかと言えば色悪寄りの、底意地の悪い人間だ。

彼は世界の全てに退屈している。

1999年7月31日。ノストラダムスの大予言が外れたその日に死のうと思うくらい、世界がめちゃくちゃになることを望んでいる。いつだって、隕石がおちてこればいいと思っているし、核戦争が起こることを夢見てる。死にたがっているくせに、自殺をしようとはしない。きっと、生きている実感を得るために死を感じていたい人なのだと思う。傍迷惑なやつだ。自分の愉悦のためなら、いくら他人を犠牲にしたとしても構わないと思っている。

やっている事は積極的な自殺幇助だ。なのに一切罪には問われない。言葉は目に見えないし、死体は喋らないから。だから一層タチが悪い。人見康介は、人を殺す方法を知っている。

灯里が、日本メンタルヘルスラインに電話をかけた時、出たのが康介だったのが悲劇の発端だ。

死んでましまえと言われると逆に死ぬ気が無くなる人間もいます。その人にとって一番死にやすい言葉を探して伝えます。人によっては、「死なないで」という言葉が、「諦めないで」という言葉が最後の一歩を踏み出すきっかけになることだってあります。

と言うのは二兎泉水の言葉だ。康介は、その場その場に合う言葉を適切に選べてしまうらしい。現にそうだった。

灯里がその自死を迷って電話をした時、彼は最初に「死ね」と言った。「生きていてもいいことないよ」と。その言葉を受けて、灯里は躊躇した。二の足を踏んだ。康介にとっては、それじゃあつまらない。だから灯里の傷を抉るような事を言った。寄り添っているフリをしながら。父のことを聞いた、母のことを聞いた。そして妹のことを聞いた。まだ未来があるんだよと囁いた。そして灯里は飛んだ。

陽毬の占いであの時蟹座が最下位だったのは、ただの偶然だ。たまたま最下位で、たまたま灯里がそれを見た。例え結果が1位であったとしても、結末は変わらなかっただろう。康介は言葉巧みに灯里を飛ばしたに違いない。

灯里を唆している間の、飛んだ瞬間の、康介の悦に入った顔の醜さは忘れられない。下衆だ、こいつは。

人見康介のしていることは、快楽殺人者のそれと大差ない。だから、二兎泉水はひと握りの後悔を抱えている。

二兎泉水

世界がめちゃくちゃになればいいと思っている、死にたがりの関節殺人者の恋人が、少しでも長生きしたいと思っている二兎泉水であることは、なんの因果だろうか?

1999年7月31日にノストラダムスの大予言が外れた時、死のうとした人見康介を見て一目惚れし、口説き落としたのが当時小学生の二兎泉水だ。それから20年も一緒にいるのだから、多分本物の関係なんだろう。が、酷く歪んでいる。

例えばあなたが止めたせいで自殺をやめたのが先生だったらどうでしょうか?あなたが止めたせいで生き延びた先生はこんな仕事を始めて、そのせいで何人もの人が自殺するかも知れません。

この言葉は、陽毬に言っているようで実は自分に言っていたのだと、観客は後になって気づく。

陽毬が実際には見ていないが、後で知ったことを想像で補う場面。泉水は康介に請われるまま、強く首を絞めていた。「最後までした方がいいですか?」とも聞いていた。「どっちでもいいけど」と答えた康介はとことん他力本願に見えるが、本当にどちらでもいいんだろう。ただ、首を絞められないと生きていると感じられない。それで死のうが関係ない。それだけだ。

だから泉水は康介を殺せない。自分も長生きしたいし、他人にも長生きして欲しい泉水に、恋人を殺せるわけが無い。

では、二兎泉水は善人であるかと言うとそうではない。陽毬が死を決意したのは、泉水が録音データを渡したことがきっかけであるし、そもそも真の善人なら康介を許すことはないだろう。

笑顔を貼り付けて他人と接し、殺意を持ちながら恋人を愛す。そんな人間が正常であるわけがない。いや、そもそも日本メンタルヘルスラインにいる人間は正常でないのだと思う。

猫宮睦美

陽毬ちゃん凄いよね。

一週間もった人久し振り。だいたい二、三日で来なくなっちゃうんだよね。

と言うセリフが物語るように、日本メンタルヘルスラインでの仕事は激務である。

かつて深夜バイトに勤しみ身体を壊した経験のある私が語るのだから間違いないが、人間は深夜に働く生き物では無い。体内時計は狂うし、メンタルも安定しない。そんな状態にも関わらず、「死にたい」と思い悩む人間の言葉を延々と聞き続け、イタズラ電話にからかわれ、そして時に人の死に触れる。そんな仕事、「二、三日で来なくなる」のが大半の人間だろう。

だから、日本メンタルヘルスラインに居続けることの出来る人間は、正常では無い。

睦美は天真爛漫な少女だ。家出をして、遠縁の泉水を頼ってここにいる。深く悩む素振りもなく、あっけらかんと存在している。そしてその、彼女の短絡的楽観さが、陽毬の母を殺した。「母親なら普通気づきません?ウケる。」と、電話口に出たのが娘だと気づかなかった母を遠回しに責めた。この時、睦美が見ていたのは陽毬の母であったのだろうか?それとも、自分の母であったのだろうか。

睦美は、不良少女だ。学校も行かず怪しいバイトをこなし、タバコだって吸う。多分お酒も飲んでるだろう。とても中学生とは思えない。

このことは、睦美の倫理観の薄さを表現しているのだと思う。他人を慮ることなく自分をやりたいように生きてる様子を表現しているのだと思う。

そんな睦美が、作中唯一人を追い詰めるのが、陽毬の母である。

いつだって誰にだってフラットな姿勢である睦美が、「母」を責める。その場面を見て、睦美はきっと自分の母に言いたいことを陽毬の母に言っているのだと思った。「家出した娘は非行の限りを尽くしてますけど、母親なら普通気づきません?ウケる。」と、言いたいのかもしれない。睦美もきっと、「愛して」と叫んでいる。

泉水と睦美は似ている。手の届くところにあるはずの愛を、歪んだ形で求めている。それに2人とも、他人にフラットなようで、内側には決して入り込ませない。そして、悪気ない一言で人を殺す。何がその人にとって琴線に触れる言葉なのかは分からない。しかし2人は、無意識のうちに「相手を殺す言葉」を放つ。それは多分、人見康介と長く一緒にいるからだ。

日本メンタルヘルスラインは、それ自体が毒なのだと思う。

父と母。日野太一と日野恵美。

毒親」という言葉があるが、日野家の両親は絶対に毒親ではないと言い切れる。真っ当に子供を育てた、ひどく真面目な両親だ。

だから、自分の正義に苦しむ。だから良心が痛む。「こうあってはならない」という思いに囚われ、「こんなことが許されてはならない」という思いに支配される。

娘が死んだ悲しみが心の均衡を壊し、暴走した不安と正義がぶつかった時、新しい悲劇が生まれた。

彼らは、きちんと陽毬を愛していたのだと思う。灯里も、陽毬も愛していた。しかし、いくら家族でも、いくら姉妹でも、それぞれは別の人間だ、人間である以上、好き嫌いも合う合わないもある。程度の差があるのは、当たり前だ。

でも、2人はそれを許せない。そんな自分が許せないし、そんな自分が悲しいのだ。そして、その感情が極まった死んだ。殺されたし、殺したし、死を選んだ。

「正常」な人間

狂ってる。

と一言で片付けるのは容易い。が、私はそんな安易なことはしたくない。直接的な表現は好まない。

人間は誰しも、一定の狂気を内に秘めているのだと思う。それを外に出さないのは、あまりに利己的すぎてしまうからだ。剥き出しの利己心は他人を傷つける。他人を傷つけた人間は、その共同体の中では生きていけない。「社会的動物」である人間は、そのための理性を持っている。

でも、その理性のタガが外れてしまったら?

秘めなければならない狂気が溢れ出してしまったら?

この作品において、全てのきっかけになったのが落ちた卵であり、日野灯里だ。

落ちた太陽

お姉ちゃんは壁を砕くことはできなかったけれど、それでも確かに罅はいれた。

日野灯里は、何に罅を入れたんだ?なぜ地面じゃなくて壁なんだ?

そんなことは自明だ。灯里が罅を入れたのは理性であり、狂気を閉じ込める壁である。日野家のタガを外したのは長女だ。

それぞれがそれぞれの「タガが外れた瞬間」を持った、狂気の集団が「日本メンタルヘルスライン」の面々である。だから陽毬はそこに存在し続けられる。陽毬も、狂気の人だから。そう考えると、陽毬が必死に「正常」を保とうとしていたのが滑稽に思えてくる。何を今更、と。あなたはとっくに壊れているんだよ、と。

小さな頃何度も見せられた恐ろしい映像。

同じ世代の人であれば誰でもピンとくるような

繰り返し、繰り返し見せられた破壊の映像。

つまり、

聳え立つ高層ビルに突き刺さり爆発する飛行機

あるいは家を車を何もかもを飲み込んで進む灰色の津波

でも一番は大きな太陽

八月にこの国に落とされきのこ雲を広げた大きな太陽

印象的に、何度も繰り返されるセリフである。

私も「同じ世代の人」であるらしい。言葉で聞くだけでピンとくる。

つまり、「9.11アメリカ同時多発テロ事件」「3.11東日本大震災」そして「8.6及び8.9広島・長崎原爆投下」だ。

凄まじい破壊をあげて、その中でも1番は原爆である。と、この作品は語っている。

人見康介は核戦争が起きて世界がめちゃくちゃになることを望んだ。

日野陽毬は、そんな康介に向かって「1つの太陽となって」降り注いだ。

そう、この作品の核は、文字通り「核」である。

核戦争を望んだ人見康介が、自らを核爆弾に見立てた日野陽毬に殺される。

この図に、私はひどく感動した。完膚なきまでに整合性の取られた脚本の美しさに感動した。

何度でも言おう。綺麗だ。だから大好きだ。

最後に

この舞台は「サカシマ」だ。時系列もぐちゃぐちゃだし、空間もめちゃくちゃ。真にリアルタイムの現実は、最後の最後、人見康介の最期の一瞬だけしかない。

登場人物は全員「道を外れた」人間だし、そもそも「残り50年はあったはずの人生を5秒に詰め込む」ことが道理に合わない。

全てが「サカシマ」である。だからこの作品のタイトルが『サカシマ』であることは必然だ。テーマまでも「サカシマ」である。

繰り返し、繰り返し、私はこの作品が「綺麗な作品である」と主張してきた。その根拠がここにある。

筋道立てられ、一切の矛盾がない世界はとても美しい。作中に登場する不合理ですら、その世界観で完結し、説明がされるならばそれはもうスパイスでしかない。

『サカシマ』は、日野灯里の死をきっかけに動き出した卵の矜恃の物語だ。

描かれ方が「サカシマ」でも、登場人物が「サカシマ」でも、観客が生活する現実と大きくかけ離れていても、それが「サカシマである」という一点において、世界観がブレずに存在する。

だから気持ち悪いのに綺麗なんだ。だから私はこの作品が好きなんだ。

とても良い作品に出会えた。これは、今後の私の創作活動にも影響するものであると思う。とても楽しかった。出会いを与えてくれた後輩に感謝だ。

久しぶりに勢いに任せて書き殴った。例によってステルス加筆修正は適宜して行くだろうが、ひとまず筆を置こうと思う。

やっぱり、観劇は楽しい。誰かの作った世界に没入するのは楽しい。

ここまで、こんなくっそ長いブログにお付き合い頂きありがとうございました。また別なブログでお会いしましょう!!

2023年六月大歌舞伎 (後編)

はじめに

さて、大本命の夜の部『義経千本桜』の木の実、小金吾討死、すし屋、そして川連法眼館。演目発表された時、飛び上がらんばかりに喜んだ仁左さまのいがみの権太だ。

私は片岡仁左衛門を観るために東京と関西を反復横跳びしていると言っても過言では無い。全ては後悔のない推し事のために。全てはいつか来るその日に悔いを残さないようにするために。本音を言えば通いたい。けれど、せまじきものは地方民だなぁ…と、悲しい地方大学生の性。東京遠征では1回の観劇が限界である。ので、いつもこの1回に全てをかけている。

私が、出演される舞台は可能な限り全て行こうと心に決めた贔屓の活躍する2023年六月大歌舞伎夜の部。この感想をつらつらと綴っていこうと思う。

(ちなみに前編はこちらです↓↓↓)

aoino-sabu.hatenablog.com


基本情報

六月大歌舞伎|歌舞伎座|歌舞伎美人www.kabuki-bito.jp

義経千本桜

   木の実

   小金吾討死

   すし屋

   川連法眼館

主な出演者(敬称略):片岡仁左衛門 片岡孝太郎 中村歌六 坂東彌十郎 中村時蔵 中村扇雀 尾上松緑 他

 

義経千本桜

まず三大義太夫狂言の1つ『義経千本桜』は、簡単に言えば「平家生存if」である。源義経が兄と不仲になり鎌倉に追われるように落ち延びる。その道中、源平合戦で死んだとされるも実は生き延びていた平知盛平維盛、平教経と関わり合い、真に平家を滅ぼすと言う物語だ。

そう、『平家物語』大好き芸人かつ平家強火担こと私のための物語である(違う)。こう聞くと、あ…難しい話かも…と思われるかもしれないが、実はそうでは無い。適度な笑い所もあり、楽しんで観られる。のに、心揺さぶられる。あぁ大好きだ。私はこの緩急のある『義経千本桜』が大好きなんだ。

今回上演される『木の実』『小金吾討死』『すし屋』は、「いがみの権太」と言う人物を主として通される時の鉄板の組み合わせだ。それぞれ単体で上演されることも多いが、木の実〜すし屋の流れで見る方が涙を搾り取られる。これは実体験した私が言うので間違いない。

木の実

いがみの権太が初登場する「木の実」は、入水自殺したとされる平維盛が生きているとの噂を聞いたその妻・若葉の内侍と息子・六代君が従者の若武者・小金吾を伴い旅をしている様子から始まる。従者とは言え元服前の前髪の幼さ残る小金吾と、小さな六代君。世間知らずが滲み出る若葉の内侍の様子は見ているだけで頼りない。木の実を拾って遊ぶ様子は可愛らしいし、茶屋で休む姿もほっこりするが、何せ頼りない。案の定、実家にも勘当されたロクデナシの「いがみの権太」に目をつけられ、路銀の20両を騙し取られてしまう。

憎い!オラついて居直り強盗のように金を騙し取り、小金吾をバカにして開き直るロクデナシ。なのに格好良いのがいがみの権太だ。仁左さまの悪役は絶品だ。でも、いがみの権太は生粋の悪役ではない。愛嬌があってどこか憎めないところもある。もう最低なヤツなのに、しょうがないなぁと笑ってしまうんだ。

若葉の内侍一行から金を騙し取った夫を責める小せんを逆に詰ったり、あまつさえ母親から金を騙し取ろうとする権太だが、憎めないのは子供に甘いからだ。小せんが「帰ろう」と言っても頑として聞かないのに、一人息子の善太郎が「帰ろう」と言えば破顔して帰ろうとする。手が冷たいと言っては握って息を吹きかけ温めるし、「おぶって」と請われれば背負う。ロクデナシだと言われても、息子のことは大事に思っているのだと分かる場面だ。小せんに対する愛も無い訳では無い。後ろ姿が綺麗だと言い、振り向かせるためにちょっかいをかける。

子供がそのまま体だけ大きくなったような人だと、そう言った印象を受ける。だから嫌いになれないし、愛嬌すら感じてしまうんだ。

引っ込みの時、刹那の家族団欒が、後から我々の涙を搾り取ることを忘れてはならない。

六代君役の種太郎くんも、善太郎役の秀乃介くんも小さくて可愛かった…。去年9月の秀山祭での初舞台の時より大きくなっていて、改めて子供の成長の速さに目を見張った。可愛い…すごく可愛い…見守っていきたい。

小金吾討死

権太に20両をゆすり取られたその日に、鎌倉方に見つかり追い回される若葉の内侍一行。踏んだり蹴ったりである。

舞台に登場した小金吾は、既に深手を負っている様子。それでも若葉の内侍と六代君を逃がすために奮戦する。小金吾だって、まだ前髪の残る子供なのに……泣くだろこんなん。

千之助くんの立ち回りは、少しぎこちなく感じた。けれど、「御台様は何処におわす…金吾はここにおりますぞ」「若様は何処におわす…金吾はここにおりますぞ」と絶叫する場面は涙無しに見られない。若葉の内侍、六代君との今生の別れは悲痛の色で染まっていた。

平家方の誰かが死ぬと、絶対に『平家物語』を初めとする源平物のくだりを思い出してしまって泣いてしまう。これもうオタクの性だ仕方がない。

立ち回りの若干のぎこちなさが無くなれば、きっともっと集中して観られる。そうしたらきっともっと泣けるだろう。これからの千之助くんの成長に期待だなぁ。

すし屋

すし屋でこんなに泣かされたのは初めてだ。自分でも引くほど号泣してしまった。

権太の実家であるすし屋には、弥助と言う若い奉公人がいる。権太の妹・お里との祝言を明日に控えており、和やかな雰囲気。特にお里はすっかり浮かれてしまっている。が、弥助はどこか心ここに在らずな様子。そこへ、権太が母親から金を騙し取ろうとやってくる。一悶着あるものの、無事に(?)金を騙し取った時、父であり店の主人である弥左衛門が、慌てた様子で帰ってくる。前の場で死んだ小金吾の首だけを持ち帰ってきたのだ。どうしてこんなことをしたのか?実は、奉公人の「弥助」は名を変え姿も変えた元・三位中将平維盛卿。源平合戦で死んだと思われていたが生き延びており、弥左衛門に匿われていたのだ。しかし、鎌倉の追手が迫っている。弥左衛門はたまたま見つけた小金吾の死体に目をつけ、維盛の偽首として差し出すために持ってきたのだ。

前半の見どころとしては、結婚を控えて嬉しそうで楽しそうなお里の様子。権太の厚顔無恥な騙りの様子とそれを許してしまう母・おくらの甘さ。奉公人としてはなよなよとして頼りない弥助が、実は維盛だと分かる場面の切り替えなどだ。

維盛役は錦之助さん。ここに1つの正解を見た気がした。維盛は、少し情けない …と言うか、浮気者の役だ。私は好きだが、あまり好まないという人も少なくないように思う。が、今回の錦之助さんの維盛は、優雅でしなやかで、都落ちした元貴族が奉公人としてその家の娘と結ばれ、偽りの人生を歩もうとしているのだな…と納得できた。柔らかな物腰と少しの世間知らずさ、そして何より為政者で支配者だったのだと分かる身のこなし。きっと、錦之助さんのニンなのだろう。べらんめぇな江戸っ子役の錦之助さんも好きだが、やんごとなきお方を演じる錦之助さんも好きだ。ところで、白塗りによって20歳は若返ったように思える維盛の出で立ちがあまりにも若々しく瑞々しくて、ご子息である、隼人さんに空目したのは内緒だ。恐るべしDNA……

続く中盤。小金吾の活躍で逃げることができた若葉の内侍と六代君が、一夜の宿を借りようとすし屋の戸を叩く。そう、ここに維盛卿一家が感動の再会を果たすのだ。これにショックを受けるのがお里だ。好きな男と結婚できると思っていたら、名前も立場も全く違う偽りのもので、かつ、とんでもない身分違いの恋をしたと言う事実に号泣する。現代なら結婚詐欺で訴えられてもおかしくない話だ。「弥助」への思いを断ち切り身を引くお里は健気で可哀想だ。

と、そこへ「鎌倉から詮議の役人が来た」との知らせが入る。急いで出て行く維盛一家。が、しかし、実はこの話の一部始終を聞いていた権太が「こいつらを差し出せば金になる」と、その後を追う。

うん、ここまでの展開だと、男が揃いも揃ってろくでもない。本当に心からお里が可哀想だ。

壱太郎さんのお里はとっても可愛い。10代の少女に見えるくらい可愛らしい。『神霊矢口渡』で、同じく落ち延びた位の高い武将に恋をするお舟にも通じる何かがある。だから壱太郎さんのお里もお舟も好きなんだ。

さて、終盤。鎌倉から詮議のためにやってきた梶原景時ら一行がズカズカと土足で踏み入り「維盛の首を出せ」と言う。弥左衛門は意を決して小金吾の首を差し出そうとするが、実はこれ、弥左衛門は露ほども知らないが、中身がすり替わってしまっている。

首の入っていない桶を差し出そうとした時、権太が戻ってくる。しかも、桶を抱えて。しかも、縛り上げた若葉の内侍と六代君を伴って。曰く「維盛の首を取った。若葉の内侍と六代君も捕まえた」との事だ。しかしどうも、権太の様子がおかしい。一見、いつも通りの乱暴者のようだが、何かをこらえている様子も伺える。

それはさておき検分の結果、維盛一家と認められ、権太は源頼朝が身につけたという陣羽織を下賜され、梶原景時ら一行は若葉の内侍と六代君を引っ立てて帰る。

これに怒ったのが弥左衛門。自分の息子の行動が許せず、怒りに任せて刺してしまう。

実の親に刺され、虫の息の権太が善太郎の笛を吹く。けれど、腹を刺されているので上手く吹けない。1度目は弱々しく、2度目も幽かな音。3度目にようやく「ピィー」と力強い音が出るという趣向にはこれ以上ないくらい涙を搾り取られる。

そして、笛の合図に現れたのは、なんと平維盛と若葉の内侍、そして六代君である。え!?生きとったん??と思われるであろう。検分したんちゃうん??とも思われるかもしれない。が、歌舞伎における「検分」なんて、正しいことの方が少ないと言っても過言では無い(ふぁ?)。『寺子屋』でも『盛綱陣屋』でも、偽首を本物だと言うのが常だ。もちろん例に漏れず『すし屋』もその様である。偽首を差し出されるのは百も承知。その上で鎌倉方は出家さえすれば維盛を殺す気は無いのだと伝える。うぇぇ…でも若葉の内侍と六代君は捕まったやん……と思われたそこのあなた。私も初見の時はそう思った。実は先程引っ立てられた2人は、若葉の内侍と六代君の着物を着た、小せんと善太郎。つまり権太の妻子である。まぁ今回は、秀乃介くんがあまりにも小さいので目隠しがズレてしまっていたし、トテトテ歩く姿を見て、種太郎くんじゃない…秀乃介くんや……って秒でわかってしまったのだが。

そう、権太は維盛一家を捕まえに行ったのではなく助けに行ったのだ。小悪党が善人の心を取り戻して死んでいく、これが『義経千本桜』の『すし屋』である。

急展開すぎん??と、初見の時は私も思った。そもそも初めて『すし屋』を見た時は、『木の実』も『小金吾討死』もなく『すし屋』を単体で見たので余計思った。あぁ、歌舞伎のお決まりのやつや…と。しかし今回改めて、『木の実』からの流れで見るとどうだろう。びっくりするくらい号泣した。それは、仁左さまの演技によるものが大きいと思う。

仁左さま…片岡仁左衛門丈は、芝居に情報を乗せるお人だ。表情や仕草で、型以上の感情を乗せて物語る。これをうるさいと思う人もいるだろう。喋りすぎだと、もっと型通りにしてくれと思う人もいるかもしれない。だけど私はこの仁左さまの芸を心から愛している。

『木の実』で見せた家族愛。善太郎に向けた優しい微笑み、子供が可愛くてしょうがないといった様子を見た上で迎える『すし屋』の場。若葉の内侍と六代君にそれぞれ扮した小せんと善太郎の顔を上げさせるときの堪えたような表情。上手く鎌倉方を騙せたという意味での「やった!やったぞおやっさん!してやった!(ニュアンス)」と満面の笑みで父親に報告する様子は、直後に意味を取り違えた父親に刺殺されるのも相まって涙を誘う。個人的に最も泣ける演目『寺子屋』に匹敵するくらい泣いた。客席の後ろからも前からも横からも鼻をすする音が聞こえてきたので、号泣していたのは私だけでは無い。と信じてる。ところで、Twitter上では「泣いた〜」「ギャン泣き」の声で溢れているのに、いざ参戦するとこんなに泣いてるの私だけじゃね?って錯覚に陥るのなんなんだろうな…と言う余談。

仁左さまの凄いところは、涙を誘う演技だけでは無い。

15代目片岡仁左衛門は御歳79歳。弥左衛門役の歌六さんでも72歳、妹役の壱太郎さんは33歳。もちろん、歌舞伎の世界では70代が20代を演じることは珍しくない…ってかほとんどそれだ。実年齢と役の年齢が合うことの方が少ない(過言かも)。それを承知で見るのが客だ……訓練されすぎでは?

でも!今回の仁左衛門権太は、歌六さんの息子に見えたし壱太郎さんの兄に見えた。凄い。20歳は若く見えたんだ。これは過言じゃない。

いがみの権太をやるに当たって減量されたそうだけど、それにしたってスゴすぎる。太もものハリが80代目前の方のそれじゃない。仁左さますごい(小並感)。いつまでもお元気でいてほしい。仁左さまがお出ましになられるなら、私はどこまででも飛んでいく所存だ。だって、人間国宝片岡仁左衛門は唯一無二の当代一の立役なんだから。

川連法眼館

四の切りが好きでない歌舞伎オタクなどいないだろう(多分)。

誰がやってもモフモフ可愛い狐忠信。最高かて。と言いつつも、音羽屋型のは初めて観た。宙乗りのない四の切りは初めてだ。最後、嬉しそうに桜に登る紀尾井町可愛かった。

以上です。

うん。短いね。さっきまであんなにグダグダ長く書いてたのにね。あらすじの説明もなしに小学生並みの感想で終わらすのが観劇ブログかってな。分かる。私ももっと書きたかった。でもしんどいんだ。

四の切りは、狐忠信は、澤瀉屋お家芸だ。今の猿翁さんが形を作って、今の猿之助も当たり役としている。と、言えば察して欲しい。四の切りを観て四代目を思い起こさないなんて無理なんだ。澤瀉屋型と音羽屋型を比べたら、どうしたって馴染みのある澤瀉屋型が好きだなって思ってしまう。もちろん音羽屋型の狐忠信の心情を押し出すようなやり方も好きだ。でも、でもどうしても求めてしまうんだ、四代目の宙乗りを。

今、何も分からない今、この状況で四の切りに関する詳しい感想を綴ることは、私の心情的に出来ない。こんなことしか書けない筆者を許して欲しい。第1報から1ヶ月経っても、いや、1ヶ月経ったくらいでは、癒えないんだ。

最後に

今月の大歌舞伎。日程的にだいぶ無理をしての参戦だったが、とっっっっても満ち足りたものであった。

吃又も、千本桜も、求めていた以上のものが観られた。最高だ。ありがとう歌舞伎座。ありがとう夢の国。

私は、やっぱり歌舞伎が大好きだ。大好きなんだ。ずっと応援していたい。好きだから、何があっても離れられないんだ。

贔屓が出続ける限り、私が劇場通いをやめることはないだろう。

 

久しぶりの観劇レポ。鉄は熱いうちに打てとはその通りだな…観終わってすぐ書かなきゃ書き上がらない。下書きに溜めてる記事もあるけれど、いつ書き上がることやら…(書けよ)

と言うわけで(??)ここまでお付き合い頂きありがとうございました!また次の記事でお会いしましょう!!

2023年六月大歌舞伎 (前編)

はじめに

今年の六月大歌舞伎が開幕するまでに、色々あった。それはもう、色々あった。

まず4月。演目が発表されてからわずか約2週間後、市川左團次丈が急逝された。菊五郎さんと予定されていた夕顔棚は幻となり、私はしばらく涙にくれた。

そして5月。詳しい事情は日本中の聞くところであるので割愛するが、梨園を揺るがす出来事があった。

もう、六月大歌舞伎は呪われでもしているのではないか、とまで思ってしまうほどである。昼の部の開幕を心から心配した。私の目当ては、贔屓の出る夜の部『義経千本桜』で、当初は夜の部のみを観劇する予定であったが、こう重なってはオタクとして居ても立ってもいられない。再開された幕見を総動員して、昼の部の観劇も強行した。

そんな、様々な思案入り乱れた六月大歌舞伎。今回はその観劇レポをつらつらと書き綴っていこうと思う。が、長くなったので昼夜で分ける。まずは昼の部について。

基本情報

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六月大歌舞伎 昼の部

一、傾城反魂香

              土佐将監閑居

              浮世又平住家

二、児雷也

三、扇獅子

 

主な出演者(敬称略):市川中車 中村壱太郎 中村芝翫 片岡孝太郎 中村福助

傾城反魂香 土佐将監閑居

近松作品は、好きか嫌いかと問われたら「嫌いでは無い」と言う歯切れの悪い回答をしてしまうことが多い。どちらかと言えば河竹黙阿弥派の私は、近松門左衛門に対し「好みじゃないけど、見ると上手いし面白くて悔しい…」と言う複雑な(?)感情を抱いている。これが悲劇ならまだ泣くが、喜劇だと退屈を感じてしまうこともあるくらいだ。

正直に言おう、『傾城反魂香』(通称:吃又)には苦い思い出がある。初めてこの狂言を見た時、うつらうつらと気を遠くしてしまったのだ。それ以来、苦手意識を持っていた。しかしそれが、今回で払拭された。

まず特筆すべきはやはり中車さんだろう。信じられない。彼が梨園に飛び込んでから約10年。たったそれだけしか経っていないのに、義太夫狂言で座頭を張れるだなんて……とんでもない努力を垣間見た。

10年…言葉にすれば僅か2文字だが…なんて、るろうに剣心でも言っていたけど、「男役10年」と言われるように、宝塚で10年と言えば一人前の目安にされる。ジャニーズでもJr歴10年なら大ベテランだ。でも歌舞伎だと違う。初お目見えが2歳、初舞台が3歳なんてことも珍しくない梨園では、芸歴10年でもまだ中高生。花形どころか子役も卒業してない時期になってしまう。そう考えると、中車さんのしていることがどれほどのことがわかって頂けると思う。

確かに踊りが硬かったり、体が重そうだったりと気になるところもないでは無いが、そもそも「香川照之」が「市川中車」として義太夫狂言に出ていると言うだけでも快挙なんだ…もうすごいよ……硬さや重さを補って余りある演技力は確かなものだし、やっぱり澤瀉屋の血だなぁ…猿翁さんにそっくりだよ…

澤瀉屋の血と言えば、言わでおかれぬ團子くん。ちょっと前まで顔に残っていた丸さがいつの間にか無くなって、すっかり今どきのイケメンになってしまって……明治座で立派に代役をこなしていたのは話に聞いていたけど、やっぱり一皮剥けた感じはした。少なくとも、前回生で見た去年の納涼祭よりもずっと成長してる。けど、もちろんまだまだ途上。これからも折れずに頑張って欲しいなって思う。と同時に、今は休める時にゆっくりして欲しいな。あの薄い肩に澤瀉屋が乗ってるんだと思うと泣けてくる…ゆっくりしてくれ……

あとはなんと言っても壱太郎さん!可愛かったぁ……どうしてこう、壱太郎さんが演じると誰でも何でもあんなに可愛らしくなるんだろうな不思議だ。

献身的に寄り添ってくれるけど、締めるところはきちんと締める。ハキハキして気持ちのいい女性なうえに、弱っている夫を1番側で支え続けるいじらしさ可愛らしさ……あのおとくに惚れない人はいないだろう。四代目のおとくはしっかり者の良い女房って感じだったけど、壱太郎さんのは気のいい奥さんって感じだった。違いが楽しめるのもまた一興だ。  

それと、やっぱり澤瀉屋と言えば寿猿さんですよ。もうお姿を一目見られただけで感動に震えてしまう…昭和5年生まれとは?いつまでもお元気でいてほしい。正座や立ったり座ったりが少しばかり辛そうだなと感じたけれど、お元気そうでなによりだった。

前回この狂言を見た時と今回とを比べて、どちらの完成度が高かったかと問われたら前者であると思う。役者の質や練度を考えると必然だ。特に最後、又平が舞う場面は、いくら稽古を積んだとて一朝一夕に幹部連中のレベルまで到達できるものでは無いよな…と感じざるを得なかった。

しかし、先程も述べたように、退屈しなかったのは後者である。なぜか?それはきっと、竹本葵太夫のおかげだ。

竹本葵太夫をご存知だろうか?歌舞伎ファンなら知らない人はいないだろう。言わずと知れた、竹本の人間国宝だ。この方は一声聞いただけで「あ!今日の義太夫は葵太夫さんだ!やった!!」と分かるほどに声がいい。それはそれは声が良い。マイクをつけているのかと思ってしまうほど鋭く会場に響き渡る声。高く低くうねり、感情とともにスっと耳に入ってくる浄瑠璃…上手なんてレベルでは無い。それこそ国宝級だ。

今月の吃又の義太夫は葵太夫さんであった。きっと、私が退屈しなかったのは前回観劇時よりも義太夫節を聞き取れるようになったことと、その義太夫が葵太夫さんであったことも一因であったと思う。

吃又は、個人的にあまり共感出来ない話だ。吃音だから師匠に認められず弟弟子に追い抜かれ、人にはバカにされた又平が、今世に望みなしと死のうとした時に奇跡が起こる。それを認められ苗字帯刀許され裃着けて姫を助けに行く。うん、わからん。けどこれが近松らしいファンタジックな世界観なので、やっぱり私は近松と相性が悪い(と思い込んでるだけかもしれないけど)。けど、もちろん好きな場面もある。

吃音の夫に変わって口の達者なおとくが立て板に水と話しまくる場面。滋賀に縁ができてからは、より楽しめるようになった「膳所」や「大津」の地名を盛り込んだ付け足し言葉の楽しいセリフ回し。絵が抜けたとびっくりする夫婦や、裃着けた又平が節をつけて舞う場面。そして最後のひっこみ、「もっと男らしく歩きなさいな」と、おとくが歩き方を指南する場面はほっこりする。何この夫婦可愛い、好き…。と、途中ウトウトしてしまったことは棚に上げて、盛大に拍手してしまうのが私の吃又観劇だ(寝るな最低だぞ)。

同 浮世又平住家

賑やか!!うわ、こういう舞踊劇大好き!…と、脳直感想失礼しました。

昨今、『吃又』と言えば『土佐将監閑居』を指すし、それ以外はあまり上演されない。この『浮世又平住家』は実に35年ぶりに歌舞伎座で上演される。『土佐将監閑居』の続きである。続きであるが、物語なんてもうどうでもいいくらいの勢いだ。頭を空っぽにして楽しめる。

前段で囚われた姫様を助けに行こうと、又平おとく夫婦が準備をしている時、その姫様が尋ねてくる。自分で脱出に成功し、逃げ出してきたのだ。追手の武士は家に踏み込んでくるが、又平の描いた大津絵が実体化して大立ち回りを繰り広げると言う奇想天外な展開だ。考えてはいけない。

役者が入れ代わり立ち代わり、くるくるとケレンを交えて登場する様は華やかで、藤娘姿の笑也さんはお美しく、鯰姿の新梧さんもお綺麗で、青虎さんの奴は勇ましく、猿弥さんの踊りは軽やかだった。

最後に鬼に扮したおとくが大立ち回りを演じ、取手の奴を翻弄する。この狂言1番のミソは、おとくが誰よりも強い事だろう。最高に面白い。後からやってきた又平は「腹が減った」と及び腰。そこでおとくは膳の支度をするが、これがまた面白い。奴を台に見立てて料理をし、机に見立てて飯を食う。最後は一堂に会して見えを切り幕。実に華やかで賑やかで、私が見たいと望んだ舞踊劇がそこにあった。もう楽しいでしかない。すこすこのスコティッシュフォールドである(???)。

口上と見せて劇は続く。続く児雷也と扇獅子に言及しようとするも、吃って上手く言えない又平の言葉を継いで全てを述べるおとく。最後まで笑い所に富んでいた。私が東京に住んでいたら、毎日一幕見席でこの場だけ買って通うだろう。それくらい楽しかった。

児雷也

そうはならんやろ!!!何この急展開!!お前ら誰やねん!!!なんで??なんでそんな???ふぁぁぁ????

と、私の脳内の大混乱を招いたのはこの『児雷也』だ。

夜道で宿を借りた先が許嫁の住む家で、妖術を掛け合っていたらいつの間にか移動し、気づいたら「お前に仇討ちのための秘術を授けよう」と言われ秒でそれを習得し、いつの間にか現れた武士と山賊と暗闇で揉み合ううちに姿を変え、仇討ちに向かう。なるほどわからん!1歩間違えばコントかと思うレベルに情報が渋滞している。それが凄まじいスピード感で流れていくので客は置いてけぼりだ。

なんで痣で「お前は許嫁!?」って納得できるん…あと児雷也お前ちょっと弱いねん…秘術ってそんな簡単に習得できるん…そんな、3歳の頃に親を亡くして20年越しの仇討ちとか記憶ないだろう……とか、ツッコミどころ満載だ。

でも、面白かった。これを「まあ歌舞伎だし」で納得出来るくらいには客も訓練されている(と思う)。

ただ、これは元の『児雷也』がなんだったか分からなくなってしまうくらい詰め込まれていた。去年の秀山祭『揚羽蝶繍姿』くらいの詰め込み様…演者が芝翫さんや孝太郎さんのような実力派でなかったらもう何が何だか分からなかっただろう。

児雷也』は蛙の妖術を使う義賊の話だ。妻の綱手はナメクジの妖術を使い、大蛇の妖術を使う大蛇丸も登場する。そう、『NARUTO』の伝説の三忍の元ネタだ。NARUTOもそうだが、「三竦み」は分かりやすくかっこいいので、その他のコンテンツにも登場する。

歌舞伎って難しそう…ってなってる人に「これがこの元ネタさ!」と示せるのは楽しい。

けど、今回の『児雷也』はちょっと分かりにくかったかなぁ……

扇獅子

こちらも愉快な舞踊劇。出てくる役者全員が綺麗すぎて、双眼鏡が割れるかと思った。

華奢な米吉さんや種之助さんは可愛らしいし、背の高い新悟さんや壱太郎さんは踊りが映えていたし、骨格のしっかりしている児太郎さんの踊りは迫力があった。

そして、何よりも福助さんだ。福助さんが登場した時の会場の暖かい拍手に少し涙腺が緩んだ。歩かなくても右半身を動かさなくても違和感の無い演出が、されていた。私としては、歌舞伎座の板に福助さんが立っているだけで満足なので感無量だ。いつかリハビリを終えられて、本格的に復帰される日が来ることを願ってやまない。

芸者が戯れに連獅子を真似るという趣向の『扇獅子』なので、世にも珍しい「女方の毛振り」が見られた。絶景だった。

米吉さんと新吾さん毛を降ってるんじゃなくて毛に振られてるの可愛らしかった。米吉さん女の子じゃん(定期)。

こたさんの元ラガーマンらしい体幹の良さが顕著に現れていたし、力任せにブンブン振り回していた種ちゃんは可愛かった。

女神と天使の空間がそこに広がっていた。なんだ、ただの天国だったのか。

ちなみに余談だが、清元連中の中で一際輝いていた清美太夫に心を奪われたのはここだけの話だ。終演後「あのイケメンの清元誰だ」と血眼になって名前を検索したのも内緒だ。

終わりに

一幕見席を駆使して通した昼の部。想像以上に良い観劇体験であった。

心配していた幕見席の見え方も思っていたよりずっと良かった。高い位置から見ることになるので花道は見られないかなと覚悟していたが、3等A席よりも七三は良く見えた。参考程度だが、自由席からの見え方はこのようである。

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2ヶ月ぶりの歌舞伎座遠征、無理をしてでも幕見を買って良かったと、そう心から思えた六月大歌舞伎昼の部だ。

 

我ながら駄文になってしまったな…後編は頑張ったよ!(え?)