あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

松竹座 七月大歌舞伎の感想

(以下敬称略)

2022年7月15日16時30分開演

 

 

 

前置き

この公演のチケットを取って正解どうか、自分の中で葛藤があった。


『第30回 関西・歌舞伎を愛する会 七月大歌舞伎』

贔屓がたくさん出る。演目も悪くない。何よりも松嶋屋中村屋の共演。贔屓の女方である中村七之助は17年振りの出演だ。行きたい。

歌舞伎美人で座組が発表された時、素直にそう思った。だが、いかんせんチケットは高いし、そもそも大阪まで行くのにお金と時間がかかる。予定も読めない。そんなこんなで、チケットWeb松竹の購入画面とにらめっこすること数日、1度は諦めた。

そんな中、大阪に出る予定ができた。どうせなら泊まろう。そうだ折角なら松竹座も行こう。私の単純な思考回路は、そう結論付けた。

しかし気づけば既に6月も末日。残る座席は1等席のみ。お値段実に17,000円。学生の財布には痛い。のにも関わらず私は飛びついてしまった。ちょうどいい日にちょうどいい座組、乗りかかった船だタイタニックだろうが乗ってやる。そんな答えを出した私の思考回路はやはり単純であるし、これが深夜テンションの恐ろしさだ。

かくして私は、人生初の1等席を手に入れた訳だがここで問題が発生した。贔屓の立役である片岡仁左衛門が、体調不良で休演すると言うのだ。

これは困った。とても迷った。

私の目当ては片岡仁左衛門だ。確かに中村屋も魅力的だが、まだテレビでも諦めがつく。しかし、生で見る人間国宝に替えられるものはやい。仁左衛門丈の体調も心配だ。いや、この1等席は、仁左衛門丈復帰の願掛けも込めた決死の購入。いやしかし……

そんな、やきもきした気持ちを抱えながら過ごすこと2週間。ついに、仁左衛門丈復帰のニュースが飛び込んできた。

待ちに待った瞬間。飛び上がらんばかりに喜んだ。本当に嬉しかった。復帰は7月14日から。私の入る公演の、前日からだった。

お膳立てしたかのような話だ。自分でも驚いた。1等席の輝きが増した。と同時に重みも増した。

現在、歌舞伎座をはじめとした諸劇場では、感染対策として花道横の座席を封鎖している。よって今、花道に最も近い座席は通常よりも2席空いたところとなっている。私が取った席は、そんな花道から2席空けた揚幕近くだった。そう、役者との距離が近いのである。

欲目を出して取った1等席。しかし距離が近すぎる。私にそんな良席に座る資格があるのか……と、随分葛藤した。それだけ、私にとって1等席は重いものだった。

服も新調して、カバンも考えて、感染対策も徹底する。自分なりの万全の体制を持って臨んだ公演は、本当に楽しかったし面白かった。揚幕近くの1等席、その良さを十分堪能できた。行ってよかったと、心から思えた。

肉眼であんなにもはっきりと、役者の顔を見たのは初めてだった。走り去ったあとの風まで感じられたのは、もはや事件だ。

チャランと、揚幕の音が聞こえる度に胸がドキッとした。次は誰が出てくるのか、誰がはけていくのか、裏でドタドタと準備する音も聞こえる。緊張感と高揚感で、胸がいっぱいになった。

奮発した1等席に、見栄を張ったおしゃれ。その全てが報われた気がした。そう思えた、今回の観劇だった。

 

前置きが長くなったが、そんな七月大歌舞伎・夜の部。『堀川波の鼓』と『祇園恋づくし』その感想をつらつらと書いていこうと思う。

 

 

堀川波の鼓』

「色恋、仇討ち、人違い」この3つで話が拗れて人が死ぬことが多いのが歌舞伎だ。特に近松作品に関してはその気が強いと、個人的にはそう思う。

この作品も例に漏れず、色恋で人が死ぬ。

時は江戸中期。小倉彦九郎は、殿の参勤交代に付き添い、隔年の江戸詰めを余儀なくされていた。そんな離れている時間の多い夫を、妻お種はとても恋しく思っている。お種は、実の弟文六(弟だが養子にしている)に鼓を習わせていた。彦九郎が不在のなか、お種は鼓の師匠である宮地源右衛門とふとしたきっかけで関係を結んでしまう(ここまでが一幕)。その噂が広く知れ渡ってしまい、彦九郎の妹おゆらや、お種の妹お藤らがなんとかしようとお種のために腐心するもうまくいかず、最後は一目彦九郎に会ってからと帰りを待ち、命を絶ってしまう。実際に起きた事件を元にした、悲劇である。

泣いた。いや、自分でも驚くほど泣いた。

鼓の師匠に「せっかくだから」と酒を進め、自分も一緒に飲んでしまったお種の姿も、江戸から久しぶりに帰り、懐かしげに我が家でくつろぐ彦九郎と、その帰りを心から喜んでいるお種、お藤、養子の文六が団欒している様子も、平穏以外の何物でもなかったのに。たった1度の酒の席での過ちが、全てを狂わせた。

それまでは「お種」「種」と愛おしそうに名を呼んでいたのに、不義が明るみとなった途端「女」としか呼ばくなった彦九郎の姿。ただただ、深々と畳に額を擦り付けるお種の姿。そして最後、お種にとどめを刺し源右衛門を追って討つという彦九郎に対して「ならば私も共に!」と次々に名乗りをあげるお藤、おゆら、文六を見て「なぜそこまでお種のことを思っているのなら、出家させて命乞いさせなかったのだ」とお種の死を悼み、涙を流しながらそっと自分の羽織を掛けて髪を触る彦九郎。

私の涙腺は崩壊した。

正直「どうしてこうなった」感が拭えない物語ではあるが、だからこそ「あの時こうしておけば」「せめて武士でなければ」のたらればが止まらず、結果として感情が涙となって溢れ出す。

特に彦九郎役の片岡仁左衛門は圧巻だった。

舞台にいるだけでその場が締まる。「女」と繰り返すその一言一言にも、ほんの少しの違いを作る。セリフの間を図る感覚は、さすが人間国宝だ。あの間を作れる役者が、他に何人いる?あの貫禄や雰囲気を醸し出せる役者が、あと何人いる?当代一の立役だと思う。少しお痩せになられたかな?と思うこと以外、休演の名残などなかった。まるで初日からそこに立っていたような違和感のなさ。さすがだ。惚れ直した。

仁左衛門が登場する2幕の方が、1幕よりも、鬼気迫るものがあり、真に感動できたと心からそう思えた。あの座組を引っ張っているのは、間違いなく片岡仁左衛門だ。

もっと見ていたい。彦九郎の顛末を見届けたい。全3段通し狂言にしてくれ。と、上手から下手へ流れるように閉じていく幕を眺めてそう思った。

曽根崎心中』も『冥途の飛脚』も今回の『堀川波の鼓』も。近松作品には「だから!なんで!そうなるの!!」と言いたくなるような作品が多い。これは、当時の江戸市民がそんな話を好んだのかもしれないし、世話物の特徴であるのかもしれないし、そもそも死んで解決しようとする人達の考えの根本が似ているからかもしれない。勉強不足の私にそれ以上のことは言えないが、多少無理な展開でも納得してしまうのも、引っ掛かりのあるセリフでも受け流せてしまえたのも、全ては役者さんの技量によるものだと思う。

情事前後の源九郎から漂っていた、なんとも形容しがたい怪しげな色気や、浮気現場から逃げ去る時の必死さを生々しく表現していた勘九郎も素晴らしい役者だなぁと見直した。お種をどうにかして助けようとする、お藤の健気さを演じきった壱太郎も素晴らしい。兄の性根を正そうと、薙刀を持って勇ましく登場した孝太郎も、まだ子供のあどけなさが残る文六を演じた千之助も本当に良かった。最高だった。

こんな典型的なストーリーで泣くなんて……と悔しく思ったが、泣いたって仕方ない。だって役者が素晴らしかった。

堀川波の鼓』は役者の芸が光る、いい演目だった。

 

祇園恋づくし』

これはまた……打って変わってどコメディ。もう笑いしかないし、くだらないでしかない。疾走感のある一幕構成で、最初から最後まで笑っていられた。「落語をそのまま舞台にした」と言うのもわかる。まるで噺家さんがそこにいるかのように、チャカチャカと話が進んでいくし、笑いのツボも用意されている。

え?こんなに声出して大丈夫?と心配になるほど、客席は笑い声に包まれた。

舞台は江戸時代の京都。江戸の指物師留五郎は、知人である大津屋の主人次郎八に「伊勢参りに来るなら、少し足を伸ばして京都まで来てはどうか」と誘われ、大津屋に滞在する。しかし、言葉も分からない京になじめず、居心地が悪いので江戸へ帰ろうとするも、大津屋の妻おつぎから「次郎八が浮気をしているかもしれないので調べてほしい」と頼まれ、留五郎は京にとどまる。次郎八はおつぎの推測通り、贔屓の芸妓染香に熱を上げていた。また、それと同時に大津屋の妹おそのに「駆け落ちしたいので江戸へ連れて行って欲しい」と頼まれる。京都のはんなりとした喋り方と、江戸のべらんめえ口調の対比や、様々な恋模様が入れ代わり立ち代わりする賑やかな喜劇である。

こんなに、何も考えずにゲラゲラ笑える歌舞伎は初めてだった。

この演目では、次郎八とおつぎを中村鴈治郎が、留五郎と染香を松本幸四郎が、早替わりで一人二役勤める。

 


https://youtu.be/HV-w8OAX0fw

 


一人二役なのに無理のない構成で、三者三様の恋模様が絡み合う複雑な話なのに混乱がなかった。さらに劇中で「留五郎さんは江戸の歌舞伎役者、松本幸四郎に似てる男前だよ」というセリフや、留五郎の見せ場の後に「高麗屋!(松本幸四郎の屋号)」と言われ「気持ちいいねぇ〜!」と答えるシーン、「次郎八さんとおつぎさんは仲の良い夫婦さ顔まで似てらァ」というセリフなど、各所にメタ発言があり少し役者のことを知っている人ならより一層楽しめるつくりとなっていた。

この話の男連中は、すぐに恋に浮かれてしまうし単純だし、そして何より妻に頭が上がらない。情けなくも、粋に京都の夏を楽しんでいる、活気のある町人たちだ。それに対して女連中は、強かで芯があり、男を尻にしいている。

堀川波の鼓とはまるで対照的だ。

同じ浮気でも、方や切腹沙汰だが他方では話の種。男女の力関係も、方や生殺与奪の権を握られているが他方では「婿養子の!癖に!」と尻を叩かれている。この2つの演目を比べてみるのも面白い。

上方と江戸の対比も小気味よく、江戸にも京都にも縁が薄い私でもよく笑えた。江戸の留五郎が銭湯に行きたくて「ゆ(湯)はどこだ?」と尋ねたら「ゆ(柚)なら八百屋にある」と八百屋へ連れて行かれる1番最初のシーン。そして「江戸より京のが優れてる!」「いや江戸のがいいね!」と言い争う場面ではそれぞれの良さが楽しめた。

花道もよく使われており、浴衣をはだけさせ、下駄を鳴らしながら粋に登場する留五郎と、すすす…っと滑るように歩く、美しい染香の姿や、「自分では身分違いだからやっぱり身を引きます」「そんな事言うなんて嫌い!もっとちゃんとしてよ!」と仲良く喧嘩しながら歩くおそのと恋人で大津屋の手代(使用人)文七の掛け合いを、すぐ近くで堪能できた。

染香の出入りしているお座敷の女将役だった七之助は、圧巻の美しさと存在感で、少ない出番にも関わらず記憶に深く残った。初めて生で見る贔屓の美しさは格別だった。

劇中、様々な問題が起こるも最後は全て丸く収まり大団円。終始楽しく、人情味に溢れた舞台だった。

 


初めての松竹座。緊張したが、本当に買ってよかった。行ってよかった。

途中で携帯の音が鳴ったり、劇中なのに観客席から話声が聞こえたりと、言いたいことがたくさんできたがまあいいだろう。帳消しにできるくらい、歌舞伎が良かった。

上方では長く歌舞伎の公演がなかったそうだ。それを盛り上げるために毎年行われてるのがこの『関西・歌舞伎を愛する会七月大歌舞伎』である。上方歌舞伎の名門・松嶋屋は毎年出ている。歌舞伎にあまり縁がないかもしれない大阪の方にも、たくさん見てほしい。歌舞伎は素晴らしい日本の伝統芸能だ。そしてやっぱり、生で浴びたいし、願わくば大向こうもあってほしい。

はやく歌舞伎に日常が戻ってくる事と、もっと歌舞伎を見てくれる人が増えることを祈って、私は来月も歌舞伎を見に行く。

7月は、本当にいい演目に出会えた。本当にいいものが観られた。やっぱり歌舞伎が大好きだ。