あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

新橋演舞場 陰陽師-生成り姫- 感想

2022年3月9日ソワレ

 チケットをもぎり場内に入る。

 パンフレットを購入し、半券を片手に席を探す。上手の桟敷席に近い8列目39席。初めての1桁列に胸が高鳴る。

 荷物を置き、席に座る。

 高鳴る鼓動を抑えつつ羽織を脱ぎ、双眼鏡を用意してパンフレットに目を通す。

 

 大学生となって舞台足を運ぶ機会が増えて以来、すっかり板に付いてきた観劇前ルーティンの完了だ。

 まだ客電は煌々としていても、会場内に立ち込めるスモークが既に陰陽師の雰囲気を醸し出しているようで幻想的だったし、幕に投射されている『陰陽師 生なり姫』のタイトルの効果もあり、開演5分前の時点で既に陰陽師の世界に陶酔できた。あとから思えばそれは、夜公演の特権だったのかもしれない。

 

 客席がふっと暗くなり、幕が上がる。

 

不思議な空間がそこに現れた。

 

 平安時代のことを描いているのにどこか現代的な雰囲気も感じる。壮大なセットが現実感を無くし「この舞台はファンタジーなのだ」と主張する。キッパリとしたフィクションであるのに、どこか掴みきれない透明感もある。平安時代ならではの雅さもある。そんな不思議な空間だ。

 

 最初、私の目の前に現れたのは三宅健だった。安倍晴明ではなく、安倍晴明を演じる三宅健だった。だがそれも最初だけ。次第に物語の中へ引き込まれていくうちに、三宅健は消失し舞台には安倍晴明だけが現れた。

 

 上質な役者が揃っていると感じた。綾子姫のわがままっぷり、済時の情けなさ、道満の憎々しい感じ、蜜虫の可愛らしさ、徳子姫の切なさと狂気、そして博雅の人の良さ。全てがきちんと伝わってきた。全てを「役」ではなく「人」として見ることが出来た。それは、演者、脚本、演出が三位一体となってこそのものだと思う。

 

 アートだ。

 

 と、そう感じた。この舞台は芸術なのだと。

 清明には見えていて博雅には見えていない精霊の設定も、笛と琵琶の精霊が博雅と徳子の思いを背負って舞うという設定も、セリフにはないのに全て伝わってくる。

 道満の精霊は古臭くてちょっと意地も悪そうに見え、清明の精霊はイタズラ好きだけど良い奴そうに見えたのは両者の対比を表しているのだろう。言外の概念なのに、観客はそれを正確に掴むことが出来る。その点において、芸術的な舞台だと感じた。

 

 まず特筆すべきはその舞台演出の妙だろう。精巧なセットが組まれ、回り舞台にセリにスッポンまで。演舞場に備わっている、江戸時代から脈々と受け継がれてきている伝統的な舞台装置が駆使されている。1人の歌舞伎ファンとして、この陰陽師の舞台は演舞場や南座などの歌舞伎舞台でしか成立しえないと感じたし、演出や演者の仕草の中にもどこか歌舞伎の要素を感じ取った。

 その一方、ワイヤーを駆使した演出や幻想的な雰囲気を際立たせるような美しい証明など、現代的な手法も盛り込まれており、まるでスーパー歌舞伎のようだと感じた。

 鬼と化した徳子が花道のスッポンで上がってきた時や、誰かが退場するときなど、つい歌舞伎を鑑賞している時のように拍手してしまいそうになったほど、歌舞伎に近いものを感じた。

 

 また、類まれなる身体能力を活かした演出には目を見張った。清明の館での精霊たち。徳子が入水を図りその水を表現する場面。「貴船神社に丑の刻参りをする女がいる。どうにかしてくれ」と、氏子が芦屋道満に頼む場面。鬼女となった徳子が綾子を食い殺す場面。自分の行いを悔いた火丸の自害を、道満が精霊を使って止める場面。「かくなる上は2人で鬼となろう」と徳子と博雅が一体となって鬼と化す場面。全てが人で表現されていた。

 重力が無くなったように軽やかな動き、関節などないような滑らかな動き、コンテンポラリーダンスのような表現。そしてそれはバレエのように、無言でも観客にしっかりとストーリーと想いを伝えられるように緻密に計算され、そして完成されたものであった。特に、5人で大鬼を表現する場面には鳥肌が立った。

 

 それらは全て『陰陽師』と言う、幻想的なファンタジー空間を巧みに演出し、観客をその世界観に引き込むのに最適であり、かつ、不要なものなど何一つ無いと感じるほど洗練されたものであった。

 小道具も細かく、冒頭、清明に勝負を挑んできた陰陽師が渡した木札や、清明が博雅に渡した札などにはきちんと文字が書かれていたし、鬼と化す徳子の爪が徐々に長くなっているという細やかさには感動した。

 

 音響に関して、やはり外せないのは笛の音と琵琶の音だ。平安時代の設定にもかかわらず、どこかケルト音楽のような軽やかさや、異国情緒を帯びていた。しかしそれも、ファンタジックな陰陽師の世界観にピッタリで、違和感もなく、むしろ自然に受け入れられた。

 それに切なさを感じつ旋律は耳にスっと入ってきて頭にこびりついて離れず、観劇後も度々胸を締め付けられた。

 

 最初は冷静沈着で人間味のない清明が、博雅のことになると感情を爆発させる。「お前がいなければ私は私であることすら危うい」という清明はとても頼りなく、今にも消えてしまいそうで、あぁ、これは三宅健にしか出来ない安倍晴明だと実感した。

 

 陰陽師 生成り姫』はその名の通り「生成り姫」が物語の中枢を担っている。「生成り」であるために、鬼と人とを行き来する。その演技の切り替えがこの舞台の鍵を握っていると言っても過言ではない。その点、音月桂さんの演技は秀逸だった。済時に捨てられ、綾子にコケにされた恨みを募らせて鬼と化し、恨みに支配されて人を殺める。その一方で、博雅への想いが徳子を人に留め、死してなおその一途な想いが果たされる。鬼と人とを行き来して博雅とやり取りをする場面を見て、じんわりと涙が滲んできた。

 

 「博雅は本当にいい男だ」というのは、原作でも印象的な清明の言葉だ。その通りだった。ひたむきで裏表のない。陰陽師として、人の闇を嫌という程見てきたであろう清明が、唯一心を許せる相手。

 ひたすらに、善人だった。

 清明清明たらしめ、人との繋がりを諦めさせない博雅の存在は欠かせない。

 

 この物語で重要なのは「根っからの悪人が存在しない」という部分だと思う。清明や博雅、徳子はもちろん、済時も綾子も思いやりと頭が足りなかっただけで悪人ではない。芦屋道満ですら自らの信念に沿って、道満なりに徳子や火丸を助けようとしただけだ。

 

 「悪人がいない」勧善懲悪の物語でないことが、とことんファンタジックなこの物語を身近に感じさせるし、琴線にも触れる部分を生み出すのだと思う。

 悪人がいない。恨む相手もいない。やり場のないやるせなさが涙として溢れてくる。そんな物語だ。

 

 誰かが誰かのために何かをしている。全員が自分を生きているその中で、唯一達観したように、全体を俯瞰しているとも捉えられる蝉丸は稀有な存在であると言えるだろう。

 観客のように、干渉しすぎることなく適切に進言してくれる蝉丸がいることで、視野が狭くなりがちな登場人物たちの独りよがりにならないように上手にバランスが保てているのだと感じた。

 

 陰陽師』は不思議な舞台だ。空間的にも時代的にも現実とかけ離れているのに、見る人の心を揺さぶり涙を誘う。芸術的なまでに作り込まれた演出とは真逆に、演者の芝居は実直で嘘がない。計算され尽くしているというのは同じなのに、ベクトルが正反対を向いている。

 それが見る人の現実味をなくし、そこにあるのに消えてしまいそうな不安定感を産む。そんな舞台だと感じた。

 

 私は1度しか見ることが叶わなかったが、23度見るとまた違う感想が出てくるのかもしれない。けれど、初見で感じた想いを大切にしたいとも思わせてくれる舞台だった。

 三宅健にしか、このカンパニーにしか表現できない『陰陽師 生成り姫』を肌で感じることができて幸福だった。心から、そう思う。

 

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