あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

RIDE ON TIME#1 Coming Century

『次回のRIDE ON TIME はV6の特集』

 その一報が入ったとき、Twitterが沸いた。

 一瞬でトレンド入り。「待ってました!」の声。何事かと思った。

 恥ずかしながら、私はこのRIDE ON TIME(以下ROTと表記)というドキュメンタリー番組を知らなかった。聞けば、とても良質なドキュメンタリー番組であるらしい。期待が高まった。さらに、4週連続の特集であるというではないか!1か月間、毎週6人が見られる。こんなに幸せなことはない。ありがとう世界。心の中で五体投地した。

  もともと私は、「ドキュメンタリー番組」というものを好んでみる方では無い。テレビをつけてやっていれば見る、という程度だった。作られたものの方が好きだから。誰かが創作したものが好きだ。世知辛い浮世を忘れさせてくれる、綺麗なフィクションが好きだ。虚像が好きだ。だから長らく二次オタであったし、今もそうだ。V6を好きになれたのも、健くんの「テレビに出ている人なんてみんな虚像だから!」との発言があったからだ。ああ、この人たちは裏切らない。きっと、いつまでも私の虚像でいてくれる。いつまでも、見たいV6を見せてくれる。そう安心できたからだ。もちろん、実像としての彼らを否定するつもりは毛頭ない。実像があっての虚像だ。彼らの全部が好きだ。

  ROTの放送開始前、Twitterではいつものように同世代のファンの子たちとわちゃわちゃ騒いでいた。放送圏に住んでいる子も、そうでない子も、胸を弾ませて放送を待っていた。これは、いつものTLの様子であったと思う。音楽番組の直前も、バラエティー番組の直前も、こうして鼓動をバクバクと騒がせ、胸をキュルキュルと締め付けながらV6のが画面に現れるのを待つ。(最近、同い年の子たちとつながり始めた私は、この時間がたまらなく好きだ。大好きだ。まるで高校の頃の部活のようで懐かしくもあり、心地よくもある。ある種の青春を感じられる瞬間でもある。この場を借りて、皆にお礼を言いたい。本当にありがとう、TLの皆!)そう、放送直前まではいつものTLの雰囲気であったのだ。

 放送直後、これはいつもと違う。そう察した。急いでFODに走った。見た。圧倒された。最初は、軽い気持ちで見ていた。いつも通りの供給だろうと、いつも通りのノリで、楽しんでみるつもりだった。番組が終了した時、私は泣いていた。自分でもびっくりするくらい、じわ~と涙がこぼれてきた。放心状態だった。30分が、宇宙で一番濃密な1秒に感じた。圧倒的で、重い。何かとてつもなく大きなものを受け取った。そんな感じ。全く知らないV6がそこにいた。

 

 前置きが長くなってしまった。今から、ROTの考察に入っていく。これは、個人的意見以外の何物でもない。ROTを見たうえで思ったことを考えたことを、つらつらと書いていこうと思う。

#1Coming Century

『V6、25年目の記念写真』

 この一言が、今日から始まるこのドキュメンタリーは『V625』の集大成であることを表している。そして、実際そうなっている。

 冒頭はV6の紹介。デビュー当時の姿や、懐かしいライブ映像。どれがどの映像か分かるようになっているなんて、一年前で考えられない変化だ。「私も、V6のことに詳しくなってきたな…」と一人悦に入った。若さ溢れる6人が、とても愛おしかった。深夜2時、隣人ことを気にしながら叫んだ。

 とても驚いた。『It's my life』のMV撮影から密着が入っていたからだ。『For the 25th anniversary』の密着だけだと思っていたから本当にびっくりした。だとすると、2020年3月から2020年11月まで、約8ヶ月間の密着ということになる。長期間だ。

 そうか、もし2020年が誰もが思い描いていたような2020年であったのなら、V6は大規模な25周年ツアーを行い、オーラスを代々木で飾り、要所要所でイベントを行い、アルバムリリースなんかもあったり、謎のシリアルナンバーの答え合わせもあったりと、それはそれは濃密な一年となっていたのか。そして、『V6が駆け抜けた2020年』を壮大にまとめたものとしてこのRTOを放送する。そんな構想があったのか。そう思った。

 しかし、そんな2020年は失われ、世界中の誰もが苦境を強いられた。クソ、死ねコロナ。君が描いた未来の中にこんな状況は映っていなかっただろう。だが、だからこそのありのままの6人の姿が、1×6のV6の姿が現れるドキュメンタリーになっている。そんな気がした。「あぁ、これは普通の供給じゃない」そう悟った。

 V6は、個々も強い。一人一人がその道の専門家のように深い知識と、思慮と、経験を持つ。だからライブDVDを見るときなど、「ぉわ!え?なんかすごいメンツだな…え?豪華すぎないか?あ、これがオリジナルメンバーだったわ…」と新鮮に驚く瞬間がたまにある。それくらい一人一人が人間として濃い。だから見ていて飽きないし、常に発見もある。その強い個々と、グループの活動に焦点を当てたドキュメンタリー。『V6、6人、25年』1つの金字塔ともいえるその当たり前を映し出すROT。その第一回が『Coming Century』

V6・岡田准一/俳優・岡田准一

 肩書は大切だ。『V6・岡田准一』なのか『俳優・岡田准一』なのかは、お茶の間の方々には些細な違いかもしれないが、ファンとしては重要だ。『V6の岡田くん』と言われるほうが嬉しい。もちろん『俳優』の肩書も嬉しいが、それでも「アイドルの岡田准一」を求めてしまう私は、極力『V6の』と言ってほしい。

 「俺を見たい人なんていないでしょ」「俺いらないんだけど」そう発言する岡田くんに少し寂しくなった。なんでそんなこと言うの?需要なら少なくとも、ここにあるよ!何度もそう思った。だから、『俳優』と紹介されると岡田くんが遠くに行ってしまうような気がして不安になった。

 岡田くんはV6のことを嫌っているわけではない。これは間違いないと思う。むしろ大好きなのだろう。Visual Bookを見るとそれがひしひしと伝わってくる。しかしきっと、『ファンの思うV6』と『岡田くんが思うV6』は違うのだ。もちろん、当事者としてみるものとファンが見るものとが違うのは当たり前だ。それでも、6人の中でもとりわけ岡田くんの思う『V6像』はファンのそれとかけ離れているように思う。

 岡田くんは、多分、いろいろなことを主観的に考える人だ。「こんな時、自分からどうするか。自分なら何ができるか。自分ならきっとこうだ」彼の行動には、常にその考えが伴っているように感じる。これは誰にでも言えることだろう。規模は違えど、私だってそう考えることは多い。ただ、岡田くん場合「相手の立場になって」考えるというよりは「今の自分がその立場だったら」を考え行動しているのだと思う。

 私が初めてそう考えたのは、まだV6ファンを名乗る前、『愛なんだ2019』でアクション部のPR動画を撮影している岡田くんを見たときだった。難易度の高いアクションに四苦八苦する高校生をみての「いっぱいいっぱいの芝居をしちゃう」という発言を聞いた時、岡田くんにはあれが芝居に見えるのか!と驚いた。と同時に、あぁ彼はなんでも自分基準で考える人なのだな、と思った。もちろん、それが悪いことだとは思わない。そんな岡田くんが率先して仕事を行っているからこそ、高い評価を受ける作品が完成するのだろう。これも一種の才能だ。

 そんな岡田くんの目に映る『V6』は「トニセン+剛健」なのだと思う。当事者である限り、鏡や写真を見なければ、その目に映る『V6』は5人だから。そして、きっとこれがファンとの差異の原因だ。もちろんファンの『V6像』もそれこそ千差万別、十人十色だ。「トニセン+カミセン」であったり「坂本+長野+井ノ原+三宅+森田+岡田」であったり、もちろん「6人のまとまりでV6」という人もいる。枚挙にいとまがない。それでも、ファンの思う『V6』には必ず「岡田准一」という要素が含まれる。岡田くんの思う『V6』にはそれが薄い。そのことがファンに一抹の不安と寂しさを感じさせているのだと思う。

 岡田くんは、器用な人だ。大抵のことは努力でできるようにしてきた人だ。できるようにしてこられた人だ。実力もある。なのになぜか「アイドルとしての自分」を自覚していないように見える。これは完全なファンとしてのエゴであるが、もっと自信を持ってアイドルしてほしいし、声を大にして「あなたは素敵なアイドルだ!」と叫びたい。

 岡田くんは、14歳で上京し、何の経験もないまま、すでに関係性が出来上がっているグループに放り込まれた。それこそ私だったら耐えられない。経験豊富なトニセン、単独コンサートまでこなしていた剛健、そして全くゼロの自分。その印象が、25年経った今でも尾を引いているのではないだろうか。だからこそ、アイドル以外の居場所を見つけることに必死だったのではないだろうか。誰よりも何よりも、岡田くん自身のために。その結果、彼はエンタメの王道に活路を見出した。見出せた。

 『やれたのか。のめりこめたのか。狂えたのか。孤独でいられたのか』

 こんな言葉がするすると出てくる人はなかなかいない。普段から思っていなければ、こんな言葉は頭の中に存在しない。だからこれは、岡田くんの本心なのだと思う。常に自問自答し、前進し続けてきたのだろう。そして見つけた自分の居場所が『エンタメの王道』であり、さらに突き抜けて「武人や軍人のオファーしか来ない王道のヲタク」となったのだ。

 しかし、そんな「岡田准一」の基盤はやっぱりV6だ。6人でいるときの岡田くんは、実家にいるかのように安心している様子に見える。そんな末っ子が愛おしい。それはやはり、5人がいての自分であり、5人と自分がいての『V6』であることを感覚的に自覚しているからだと思う。世界中、どこを探しても同じ関係性など存在しない。この世界線で今しかない『V6な関係』というものを肌で感じているから、「俳優」にあこがれを抱いても「アイドル」に疑問を感じても、岡田くんは「V6」であり続けたのだろう。

 だから私は『V6・岡田准一』の肩書が好きだ。『V6のおかだ』であり続けてくれる彼が好きだ。藻掻きながらも画面の向こうに、ステージの上にいることを選んでくれた彼を尊敬する。

「省エネ」

 V6のファンになる前、森田くんは怖い人だと思っていた。あまり笑わず、冗談も言わず、寡黙で、アイドルらしからぬ人。それが森田くんのイメージだった。だから、ファンになって驚いた。こんなに笑う人だったのか。こんなに面白いことを言う人だったのか。こんなにはしゃぐ人だったのか。剛くんはすごくすごく魅力的な人だった。

 思い返せば私は、剛くんのことをあまり知らない。誕生日、血液型など、知識はたくさんあるが「森田剛」という人間をあまり知らない。だからか、今回のROTで一番新鮮さを感じたのは剛くんだった。そんな私でも、剛くんが「省エネですね」と言われた時は戸惑った。彼のどこを見てそう思ったのか疑問に思った。剛くんをつかまえて『省エネ』と評するなんて、本当に全然わかってないね!と、そう思った。

 剛くんの得意とする「舞台」は、ナマモノだ。そして彼は、その場のその場の雰囲気を、生きている空気感を大切にする根っからの舞台人であるのだろう。

 舞台とは、観客がいて初めて完成する一回限りのものだ。まるっきり同じお客さんの前でやる舞台など、二度と存在しない。故に同じ舞台も二度と存在しない。だからこそ、多くの舞台人をして「舞台は生きている」と評さしめるのだろう。そして、そんな舞台の性格は剛くんの肌に合っているのだと思う。

 『愛なんだ2020』の剛くんと、一人で写真撮影をしている剛くんとでは、何かが違った。「これ(笑顔の)マックスっす」と言っていた時の剛くんの笑顔は、私が知る一番の笑顔ではなかった。『愛なんだ』で、嬉々として学生をいじっていた剛くんの笑顔の方が輝いて見えた。

 これは、目の前に観客が見えるか否かの差であると思う。『愛なんだ』の場合、目の前に「素人さん」という観客がいて、その人たちとやり取りをすることで一つの番組を作り上げていく。なるほど、舞台と似ている。一方で写真は、目の前のカメラマンやスタッフとのやり取りが主だ。実際に雑誌を手に取り、喜んでいるファンの顔がリアルタイムで見えるわけではない。何枚も何枚も撮影した中の一番いい写真を選ぶので、ある程度のやり直しがきく。いわば、舞台とは真逆の仕事だ。

 舞台人である剛くんにとって、その違いは大きいのだろう。「あと5枚」が多く感じるのは、きっとそのためだ。そんな剛くんの仕事に対する姿勢を「省エネ」の一言で片づけられるはずがない。それこそ「こだわっているところが違う」のだから。

 「省エネですね」と言われた時、「失礼だな」「全然わかってないね」「それマズいですよ」とすぐさま否定し、「やっぱり、そりゃそうか」と自分の中に落とし込み「別に省エネにこだわってるわけじゃない」と言語化して説明しようとしてくれた剛くんは、本当に大人なのだなと思った。それ以外にも、ダブルダッチ部の学生たちに対する態度や顧問の先生に対する態度が、きちんとした大人としてのそれで、あぁ剛くんも大人なんだ…と勝手に感心した。抱いていたイメージと少し違っていたから、面食らいもした。そして、これが25年間のトニセンの教育による賜物なのかな?と思うと余計にほほえましく感じた。

 剛くんが『V6メンバー』を語るとき、なんとなく雰囲気が変わるように思う。上手い言葉が見つからないが、特別な何かを語っている雰囲気を感じる。そんな剛くんが「省エネ」のくだりで、唯一名指しで引き合いに出したのが長野くんだ。

 余談ではあるが、少し書いておきたいことがある。オバドラの事だ。

 オバドラの関係性は不思議だ。ファンの間ではよく「オバさんとドラ息子」といじられるし、強い信頼関係もうかがえるがそれだけじゃない。ワンズコンでの『博のいいとこ45』でも、剛くんだけは他のメンバーと違った。「長野くんは優しい」という言うなれば、テンプレのような一言を否定した。それは「自分はみんなが知らない長野博を知っている」という主張のようにも見えたし、「優しい以外の長野くんも長野くんだよ」というメッセージにも思えた。

 V6におけるコンビは、どの組み合わせもメガトン級に尊く、その尊さはそれぞれ違う。そしてオバドラの尊さは、他の誰とも違う、剛くん独特の「長野くん観」とそれに伴う言動。そして、それに気づいてるか否かが分かりにくい長野くんの態度が、大きな部分を占めていると考える。今回のROTを見て、余計にそう思った。

 話を戻そう。例えば以前「長野くんが怒ってるのわかるよ」とも言っていた剛くんは「長野くんが言わなくても、長野くんのことはわかる」という前提に立ったうえで、長野くんのことを俯瞰してみているように感じる。このように剛くんは、些細な表情や語調、動作の変化を見逃さず、言外の感情を読み取ることができる、25年間で培われた経験と感覚に、絶大な自信を持っているのだろう。もちろん、これはきっと他のメンバーに対してもいえることなのだ。岡田くんとは逆に、剛くんは『V6に一番近い第三者』の視点を持っているような気がする。スタッフの視点でも、ファンの視点でもない。その世界や関係性を感じられ理解もできるが、あくまでも客観性を失わない第三者。それこそ、観客のような視点を持っているのだろう。

 だから、V6の「個々の強さ」を一番認識しているのは剛くんなのだと思う。V6が「V6」という作品を演じる一つのカンパニーだとしたら、メンバーは演者であり役そのものだ。剛くんはその個性の一つ一つをきちんと把握し、舞台を完成させるための最大限のパフォーマンスを行うことに長けているのだと思う。

 そんな剛くんを「省エネ」と判断するのは正当ではない。ファンなら少なからずそう思うはずだ。

広い視野

 健くんはよく「自由人」と言われる。メンバーもそう言っているし、TVなどでの言動を見ていてもそうだ。しかし「ただの自由人」ではない。言うなれば「地に足付いた自由人」だ。「自由人」だからこその柔軟な考えと行動力を持ちながら、その活動の基盤となる「アイドル」や「V6」からは、決して離れない。だから、ファンは安心して、その「自由からの供給」を受け止めることができる。そしてこれが、三宅健の三宅兼たる所以なのだと思う。

 健くんは視野が広い。とんでもなく広い。だから、いつ・どこで・誰に見られても『アイドル・三宅健』でいられるように、いつも気を張っている。これは、言動の端々であったり、ラジオでの姿であったり、テレビでの姿を見ているとなんとなく察するところがある。カメラの前であれ街中であれ、それが「人前」である限り、彼は『三宅健』であろうとするのだろう。

 そんな健くんは、今回のコロナ禍にあっても、徹底的な自粛・消毒・換気。三密を避ける行動をとっていた。自分が社会に及ぼす影響力を、正しく理解しているからこその行動であると思う。ROTの中でも、その一端が垣間見えた。

 「こんだけ人が集まって、何時間もやってんだから換気をさ」「10分とか15分とかで」「俺らは集中してて指示出せないから君たちが率先してさ」と、鋭い口調で注意する健くんに、私まで注意された気持ちになった。私は、ここまで注意して生活できているか?楽さを求めるあまり、無視しているところも多いんじゃないか?と、改めて思うことができた。そんな力を持つくらいの、本気の言葉であった。

 ブログの一言に関してもそうだ。一過性のものではいけない。偽善に見えては意味がない。その上、押しつけがましくもない。今日、初めてこのブログを読んだ人も、この文章を目にできるよう、毎回載せる。一回に集約してしまうのではなく、毎回続ける。これが、惰性になってしまわないことが一番すごい。決してテンプレではない。本心からの言葉だと分かる。本人が気を付けていることも伝わる。だからこそ、この言葉が意味を持つ。自分の言動に責任を持つ、という姿勢の表れでもあると感じた。

 そしてこの一言は、もちろん、すべての「医療従事者」への感謝や、それ以外の人に対する注意喚起の意味もあるのだろう。その中でも、とりわけ「医療従事者」にカテゴライズされるファン、「医療従事者」に支えられているファン、人々の生活の要となる仕事に励んでいるファンなど、様々な場面でコロナと戦っているであろうファンへ向けての一言であると感じた。

 そう。健くんはいつも、直接は目に見えない多くのファンのことを考えてくれる。欲しい言葉をくれる。行動をくれる。視野が広くなければできないことだ。そこにこだわりもをっていなければ、できないことだ。そして、ここまで丁寧に真摯にファンと向き合ってくれるのに、それが押しつけがましくない。というのが健くんの最大の気遣いであるように思う。「俺がここまでしてやった。喜べ!」とは、決してならない。最終的な善し悪しの判断は、ファンに任せてくれる。ファンとして『V6』を『三宅健』を推していくことを、決して義務にしない。そんな姿勢もうかがえる。

 例えば字幕のオンオフだ。「耳の不自由な人のために字幕を付ける。だから全員、全編字幕付きのまま見て」とはならない。常に選択肢を残してくれる。それを、当たり前のようにしてくれる。誰も排除しない。誰も見えないことにしない。「ファンである」という一点において、全員を平等に扱ってくれる。受け入れてくれる。

 10周年の時の握手会の映像で、ほんの数秒であっても目の前のファンときちんと目を合わせ「ありがとう」と言っている健くんの姿に感動した。そして、そのほんの数秒が健くんの人生を変えたという事実がたまらなく尊かった。もしあの握手会がなかったら?もし第一言語を手話とするファンの方がいらっしゃらなかったら?今の、福祉やボランティアに積極的な健くんはいなかったかもしれない。

 見えないものや知らないものなど、自分が認識できないものは、自分にとってこの世に存在しないものと一緒だ。それは決して、排除ではない。ただ、知らないから無いものと思っているだけだ。存在は認識から生まれる。そして健くんは、その認識のアンテナを張り巡らせているのだろう。そこに引っかかったものを、無視しないように努めているのだろう。

 万人に好かれる人など、きっと存在しない。だからこそ「わかってくれる人だけに分かればいい」という一種のあきらめと、「自分のことを好きでいてくれる人には、全力を尽くす」とうこだわりが、共存しているのだと感じた。それが、いつも有言実行してくれる健くんの『好きにさせたからには責任をとる』という言葉に対する行動なのだと思う。

 V6で一番『ファン目線』を理解しているのは、健くんだと思う。だから、坂本くんの「メンバーで一番考えているのは健」という言葉は、言い得て妙だ。「ファンにとって、どんなV6が一番か。そうなるにはどうすればいいか」を常に考えているのだとしたら、必然、グループや個々のことを一番考えるようになるだろう。

 同じ「メンバー個々のことを考える」という行為だが、健くんと剛くんでは違いがあると思う。剛くんは『メンバーそれぞれの本質』を見ていて、健くんは『メンバーそれぞれのアイドル性』を見ている、という違いを感じる。それは、目の付け所の違いに繋がっているのだろう。

 主観的に考える岡田くん、俯瞰してみる剛くんに対して、健くんは「ファンとして」の視点を持っているのだと思う。『ファンとアイドル』は表裏一体だ。片方が欠ければ、片方は存在しない。そういった意味では、ファンも当事者であると言える。だから「ファンのためにグループを存続させる」「グループのためにファンのことを真剣に考える」この二つは同義であると思う。

 健くんは常に、『ファンならこう思う』という視点を失わない。日本中、いや、世界中に、何十万人といるファンの立場に立って考えることができる。それこそ「自由」であるからこその、柔らかい発想と広い視野を持ってこそのことだろう。「自由」な感性と発想、そして『アイドルグループ・V6』という基盤によって生み出された『三宅健』が、私は大好きだ。

RIDE ON TIME

 V6のCDやライブDVDにはいつも、特典映像としてメイキングがついてくる。『For the 25th anniversary』の初回盤Aにも、ドキュメントがあった。とても長く、とても内容のある、とても感動するドキュメントだった。そしてROTもドキュメンタリーだ。しかしどこか違う。大きなものが違う。

 具体的に言えば、『It's my life/PINEAPPLE』のメイキングで見たはずの映像が、聞いたはずの内容が、全く違うもののように思えた。確かに「美意識高いから」のくだりで爆笑していたはずなのに。不思議と、まるっきり第三者の視点から見ているような、そんな気持ちになった。

 特典のドキュメントは、V6がファンへ向けて作ったものだ。『V6 to ファン』の一対一のものだ。言うなれば、当事者同士のやり取りだ。対してROTは、その一対一のやり取りを第三者の目線から見つめたものである。この違いは大きい。だからこそ、一度見たはずの場面や、やり取りが全く新しいものに見えたのだろう。

 そういった意味では、ROTはとても価値のある番組だ。普段は、推しに対する熱烈な思いから、なかなか俯瞰してV6を捕らえられないファンが、ドキュメンタリー番組という形で第三者の視点を疑似体験できる。するとそこには、全く知らない、新しいV6の姿が現れる。言葉にならない感情があふれてくる。

『たとえそれがノンフィクションのドキュメンタリーであっても、人が映し出し言語化し世に送り出した時点で、それは人の思いが入ったフィクションになる』

 これは、高校のころ先生に言われた言葉だ。今回のROTがまさにそうなのだろう。限りなくノンフィクションに近く、限りなくありのままのV6に近い。しかし、それでもなお「アイドル=偶像」という神聖を犯さない。ここまでつらつらと持論を書き連ねていった、私が感じ取った『Coming Century』の姿でさえ虚像かもしれない。これだから、「アイドル」は尊いしV6は推しがいがある。

 私は生まれて初めて、真剣にドキュメンタリー番組を見た。その結果、大好きな人たちの、知らなかった一面を発見することができた。剛くんの言葉を借りるなら「こだわる所が違う」三人の姿だ。

 主観的に考えられる岡田くん。俯瞰して考えられる剛くん。ファン目線で考えてくれる健くん。この三人がいての『Coming Century』であり『V6』である。その事実がたまらなく尊かった。その上、こうしていくらファンが考察しようが「犬と戯れる剛健と、そのそばで安心しきって眠っている岡田くん」が存在するという、何にも代えがたい事実にはかなわない。『Coming Century』は、こんな新規オタクの、陳腐な一万字程度の考察で語りつくせるほど浅くない。そのことが、たまらなく愛おしい。

 今回、ステージや番組、舞台で、私たちに「完璧な作り物」を見せてくれるメンバーの素を、垣間見ることができた。このメガトン級の供給によるクソデカ感情を消化するのに、一週間と一万字かかった。ROTは確かに、非常に良質なドキュメンタリー番組である。遂に明日、放送される『#2 20th Century』も楽しみだ。とってもとっても、楽しみだ!