『推しは推せる時に推せ』
なにかのオタクをしている人なら、1回は聞いたことのある言葉だと思う。これはきっと、何かを推す上で欠かせない重要な要素だ。
誰だって、趣味で後悔したくない。
芸能界を震撼させるニュースが走る時、誰かが必ず呟く言葉がある。「推しは推せる時に推せってホントだったんだよ……」「今推しがいる人は後悔しないようにね……」って。そこには、目の前の虚像や理想を失いかけている絶望や、タラレバの後悔が滲んでいる。浸っていられる間に、もっと浸っていたかった……って。
でも、その想いの根本が飽くなき欲望である限り、後悔のない推し方なんて、きっと存在しないんだ。
結局、どれだけ頑張って推してても、いつか来る終わりの時には後悔してしまう。オタクの欲望は尽きないけど、財布と時計には限界がある。だから、オタクはいつだって取捨選択を迫られる。よって、誰にだって何かを諦めた経験があるだろう。つまりそれが後悔の元なんだから、後悔のない推し方なんて、きっと存在しない。
なんでこんなことをつらつら考えてるかって、それはここ最近、1つの大きな喪失があったからだ。
2023年4月15日
四代目市川左團次丈が急逝された。
私がこのニュースを知ったのは4月17日の4限の講義を受けている時だった。講義中にTwitterを覗き見る不良大学生である私だが、その直前の土日は部活で忙しくしていたので、SNSをはじめ、一切のニュースを目にしていなかった。
だから、パッと目に入ったその文字が信じられなかった。認識して、理解した途端、涙が止まらなくなった。
そのくらい衝撃だった。だって本当なら今月も、来月も再来月も会えるはずだったんだもの。だって、1月は元気に国立劇場に立たれていたんだもの。だって、ご病気されてるなんて知らなかったんだもの。
左團次さんは、背が高くてちょっと強面で、悪役をされることが多かった。けど、実際はすごく陽気で、真顔でふざけたことばっかりして、よく笑わせてくれる素敵な人だった。
いつから存在を認識してたかなんてもう覚えてない。歌舞伎にはいつだって左團次さんがいた。それもそのはずなんだ。いくら小さい頃から観ていたと言っても、私の観劇歴はたかが15年くらいで、左團次さんの芸歴の4分の1にすら及ばないんだから。
よく通る声が好きだった。大柄な体格が魅せてくれる型が好きだった。何より、ユーモア溢れる口上が大好きだった。
当たり前の存在が喪われた。もう二度と舞台で見られない。そんなのは……あまりに陳腐な言葉だけど……そんなのは辛すぎる。
V6の最後のライブで、井ノ原くんはこう言った。
「別に、死ぬわけじゃねぇんだから!」って。だから大丈夫だぞ!って、V6が思い出になってしまう事に、どうしようもない寂しさを抱いていた私たちを励ましてくれた。
私は、例え推しがその命を終えたとしても推し続けていける自信がある。だって、死んでも愛してる。愛してるんだから生死は問わない。死んだって大好きなことに変わりはないんだから。ヨカナーンの生首に口付けしたサロメは、こんな気持ちだったんだろうか?……ちょっと違うかもしれない…まあいいや。
去年、十八世中村勘三郎が亡くなって10年が経った。私は中村屋贔屓だから、「あぁ…もうそんなになるのか……」って寂しくなった。
亡くなって10年。今だって大好きな役者さんだ。勘九郎さんに面影を見ては泣いてしまったり、勘太郎くんが大きくなるにつれて感慨深くなったりする。
それが、歌舞伎の推し方だってわかってる。
大幹部連中の勇姿を見届け、花形役者さんたちの成長を見守る。贔屓の息子は贔屓だし、贔屓の孫は可愛くてしょうがない。それが400年繰り返されてきたのが歌舞伎役者と贔屓筋の関係なんだろうなって、若輩者の小娘が思うなどしてる。
でもね。
二度と更新されない大好きな人を想い続けるのは、時に虚しくて、時に悲しくて、不意に涙が出てくるようなものなんだ。
私の、所謂「推し」の中で最年長なのは十五代目片岡仁左衛門丈。御歳79歳。母方の祖母と同い年だ。体調を崩されて休演される度に胃が痛くなるほど心配してしまうし、一世一代が増えていく度に寂しくなる。後悔のないように、仁左さまが出演される舞台は欠かさず行くようにしている。
それでもきっと、いつかの日には後悔してしまうんだろうなって思うんだ。
歌舞伎を推し続ける限り、定期的に、悲しいニュースに触れることになる。同じくらい幸せなニュースにも触れられるけど、埋められないものは確かにあるんだ。
去年9月の秀山祭。吉右衛門丈の追善口上を聞いて、会場のほとんどの人が鼻をすすってた。私だって、例に漏れず泣いた。
別れは寂しいけど、いつかは来てしまう。その時まで、全力で推し続けることは、できるのかなぁ……
誰かを、何かを、好きで居続けることは、ものすごくエネルギーを使う。感情が起点となって遠征したり、配信を買ったりするんだもの、言ってしまえば正気の沙汰では無い。でもそれがオタクってもんだし、それが私の生きがいだからこのままでいいと思ってる。
推し事にゴールなんてないし、1度好きになったものを無かった事には出来ない。相手が彼岸の人だろうが、自分の命が尽きるその時まで好きなんだろう。だから推しが増えてく一方なんだけどね。
有名人を一方的に愛し続けると言う狂気「オタ活」を続けていく上で、後悔のない事なんてないと思う。辛い思いをしないことなんてないと思う。いくら全力で推していても、いつか来る別れの時に「あ〜もっと早くに出会っていたらな……もっとこうしていたらな………推しは推せる時に推せだなぁ……」って思ってしまうんだろう。
でも、その後悔を少し軽くするためにも、今できる全力を尽くしたいから尽くすことがつまり「推しは推せる時に推せ」ってことじゃないかなぁって思うんだ。
なんだか、よく分からない文章になってしまった……こんなものをつらつら書くくらいなら観劇レポを早く書きあげろって思うよな…私もそう思う。けど、一旦整理したかったんだ。
ここまでお付き合い下さりありがとうございました。また別なブログで会いましょう!!Fin!