あおの世界は紫で満ちている

自分の趣味にどっぷり沈み込んだ大学生のブログです。歌舞伎と宝塚も好き。主に観劇レポートなど。

『凍える』の感想

2022年11月12日13時開演 穂の国とよはし芸術劇場プラッド

 

芯から凍えた。文字通り、震えるくらい鳥肌が立った。下手から重そうなスーツケースを引きずりながらヒステリックさ満点のアニータが登場した開幕から、光と闇とをこれでもかと見せつけられた終幕までずっと。全編通して息が詰まる舞台なんてそうそうない。生半可なホラーよりもよっぽど怖かった。それはきっと、人間の冷たい部分に触れてしまったからだ。

今回のブログは、今年観た中でも1,2を争う激重作品『凍える』についての感想、観劇レポ。長くなったので目次でまとめる。なお、私が参戦したのは一回のみであり、初見の印象とパンフレット、そして自分の中の考えで文章を構成していく。以下に書かれるのは私の主観であることを、最初に断っておきたい。

基本情報

パルコ・プロデュース2022『凍える FROZEN』

作:ブライオニー・レイヴァリー 

翻訳:平川大作 演出:栗山民也

出演:坂本昌行 長野里美 鈴木杏

1998年イギリス初演

stage.parco.jp

全体の印象

小説を観ているような舞台だと感じた。とにかくモノローグ。モノローグに次ぐモノローグ。一幕は、そのほとんどが三者三様のモノローグだった。

コナンドイルを読んだことがある人には伝わるだろうか?少し前の時代に書かれた作品などは特に顕著だが、洋書と言うものはとにかく回りくどい。基本的に一人称で進んでいく物語、隙あらばなされる聖書の引用に、多用される比喩、そして何より、セリフですべてを説明しようとする。『シャーロック・ホームズ』を読んでいるときなど、依頼人のセリフが1~2ページ、またはそれ以上続き、どこからがセリフだったか、そもそも今まで読んでいたのはセリフだったのかがわからなくなる経験を、少なくとも私は、何度もしたことがある。そんな、洋書のような雰囲気を感じた。

舞台から「これは!イギリスで生まれた!ヨーロッパの演劇です!」と言われているような印象を受けた。例えばこれが、オペラなどの古典的なヨーロッパ演劇だったら、ラルフとアニータが恋に落ちて心中してしまったり、ナンシーがラルフを惨殺して自分も死んだりする気がするなぁ…。ブロードウェイなら、1人は白人でない人が出てくるだろうなぁ、アニータは男性社会で奮闘する「女性」精神科医ってのが強調されちゃうかも…?日本の演劇だったら、声高に死刑を求刑する人が出てくるだろうし、歌舞伎(…の、特に河竹黙阿弥※1あたりが脚本)だったら、ラルフは、ナンシーの里子に出した実子でローナは血を分けた妹だった!くらいのエグい設定を持ってきそうだなぁ。なんて、独断と偏見による勝手な解釈だけど、そんな違いを感じた。描く人によって、ものすごく変わる作品なのだと。

『凍える』からは、「テレビでよく見るヨーロッパの前衛的な演劇はこれか!」と言える何かが伝わってきた。こんなあやふやなことしか言えない、自分の語彙力の貧弱さに辟易するが、そう言うことだ。ニュアンスだけでも、読者様に伝わっていると信じたい。

演出・照明・音響

そう、演出が印象的な作品だったんだ。必要なもの以外は削ぎ落された舞台上に、効果的に使われるスクリーン。キーボードに合わせて文字が表示されていくのを見て、オフ・ブロードウェイミュージカル『The Last 5 Years』※2の演出を思い出した。

坂本くんが演じるラルフの登場シーンは印象的だった。パッと現れたシルエットの効果により、観客は坂本昌行を通してではなくダイレクトにラルフを感じられる。パキッと空間を切り裂くような照明は、音が鳴るように切り替わっていった。基本的には、舞台上の「黒」に対する照明の「白」という二項対立があったように感じる。唯一カラフルだったナンシーのお庭が、ローナの訃報がもたらされた瞬間色を失ったのがすごく頭に残った。それに、アニータの講演の時、宇宙を感じさせるような脳の様子を表した照明も。

SEは最小限だった。演者のお三方は地声でお芝居されていたし、それによって、アニータの講演の場面とラルフとの面談の場面が、マイクを使っているか使っていないかでうまく分けられていたのは本当にすごい発想だ。加えて、舞台上の音が上手く利用されていた。特にラルフが手を洗うシーン。そう、1番驚いたのは、ヨーロッパの輸入舞台で本水※3があったことだ。蛇口から本物の水が出てきた時、「わぁぁ本水だ……すごいヨーロッパの舞台にもこの概念があったのね……」と感動した。そして、蛇口から流れるチョロロ…と言う水音がBGMになっているようでさらに感動した。一幕の最初の方と、二幕の終盤に登場した本水だけど、今思えばあれは、ラルフの妙な潔癖さを表現していたのかもしれない。

『凍える』はケレン※4に富んだ作品だ。急にバタンッ!と大きな音がしたときは、ものすごくびっくりした。見ると舞台中央が屋根裏部屋の入口のようになっていて、ラルフが顔だけのぞかせて不気味に笑っていたのでさらに恐怖した。狐忠信※5かあんたは。

大道具

舞台装置も不思議だった。三本の道が真ん中で交差するようになっており、上手下手だけではなく中央奥からも出入りができるようになっていた。その「道」が全体的に斜めになっていたのも特別な理由があるんだと思う。「道」で場所と時間を区切り、照明で視線を誘導する。シンプルで静か舞台であったけど、不気味でもあった。

道に区切られた空間が、それぞれのテリトリーになっていた。上手側はラルフの、下手側はナンシーの。でも、アニータの居場所はなかった。彼女はいつだって道の上にいて、そしてラルフの方に寄っていた。これも、アニータが「罪」を犯していることに対する比喩なのかもしれない。

一幕最後で、三人が初めて同じ場所を通り、道が交差した。そしてそこから、一気に話が加速する。縦に走っていた「道」は、きっと越えられない大きな一線なのだと思う。二幕の終盤、ナンシーがラルフと面会した時に示された境界線が、それを象徴しているのではないだろうか?大詰めで、アニータとナンシーにあった決定的な差も、真ん中の線を越えられるか否かであったのではないだろうか?

椅子の使い回しも独特だった。ナンシーが、使えばそれは家具になったし、アニータが座れば飛行機の座席になった。今話しているのが誰かによって、その空間がどこなのかが変わるからだ。すごいなぁすごいよ…大道具は一切変わらないのに、周りを取り巻く演出がクルクル変わるから全部が変わる。観客にとってはついて行くのが大変だけど、それでも見応えがあるから引き込まれる。………ついて行くのは大変だけどね。

舞台上には無駄なものなんてない。全部に意味があって、全部が必要なものだ。だから、舞台装置にも注目して見ると、もっと面白く観劇出来ると思う。

考察

『凍える』には果てしないエゴイズムが描かれているのだと思う。
登場人物には、それぞれ事情がある。それは、底が知れないくらい深くて複雑なものだけれど、1番シンプルに言えば、全員がわがままで利己的なのだ。

人物評

ナンシー

ナンシーは、ローナを失って心を壊した。それでも、ローナは生きているんだと信じて活動団体を立ち上げて活動を続けた。なにも振り返らず、なりふり構わず、夫のボブも、もう一人の娘のイングリッドも気にかけず、ただまっすぐ、すがるようにローナを待ち続けた。狂信的で、妄信的で、見ていていたたまれなかった。かわいそうだ。でも、同情はできない。だって、ナンシーはいつでも自分が中心だったから。

悲劇の母親でありながら、懸命に他人のために、また娘のために活動している自分に、1種のアイデンティティを持っていたのではないだろうか?ローナの訃報で色を失った花はつまり、ナンシーが手塩にかけて育ててきたイングリッシュガーデンだ。庭の手入れを頼んだがために、ローナはラルフに攫われた。にもかかわらず、ナンシーの庭はいつでもカラフルだった。「庭」が、ナンシーの自己表現だったのではないだろうか?子供にも夫にも注がれることのなかった、行き場のないナンシーの「愛」が、あのカラフルな庭に反映されていたのではないだろうか?

だから、ローナが本当に死んでしまっているのだと分かったとき、全部が崩壊してしまったのだと思う。色を失った庭は、その象徴だ。

「何も私を引き留めないなら、その時私は自由になる」印象的な、ナンシーの言葉だ。では、ナンシーは何に引き留められていたのだろうか?

母親としての役割も、妻としての役割も放棄していたナンシーを引き留めるのは何か。それは、ラルフの犯した罪であり、失った娘のローラであり、そして、それに固執する自分自身であったのだと思う。

ローナだけの母親であったかのように、長女のイングリッドを無視した自分。その反面、ずっと「ローナの母親」であって「ナンシー」ではなかった自分。そして死刑のないイギリスの法制度を恨み、復讐の機会のないことを恨み、ラルフを憎み続けた自分。その全部を清算して、自由になりたかったんだとおもう。

諸悪の根源は、間違いなくラルフだ。だからナンシーはラルフを許して、憎むことをやめた。そうやって自由になった。許したのはラルフのためでも、イングリッドに言われたからでもない。ただ、全てに疲れたから、自由になりたかっただけだ。

アニータ

アニータは一番のエゴイストだ。自分の、いや、自分たちの研究を完成させることだけが目的で、そのためだけに生きている。

ラルフと面談しているときのアニータは、人間と面談しているというよりも、チンパンジーを観察しているようだった。「足が動きにくいことは無い?」「鼻を触ってみてもいい?」全部、自分の研究に必要なことだけしか聞いてない。嫌がるそぶりを見せられたときにさっと引くのも、ノウハウが分かっているからだ。ラルフが虐待を受けていたと分かったとき、心のどこかで喜んだのではないだろうか?同情しつつ、これで完璧なデータが得られたと。アニータにとってこの研究は、好きだった男との子供のようなものであるだろうから。

自分の「罪」をどう捉え、どう扱うか。そればっかりに囚われて、最後は自分の都合のいい答えになるようにラルフを誘導した。ラルフが死んだのはきっと、ナンシーとの面会がきっかけじゃない。面談で思い出された幼少期の記憶に、ナンシーとの面会で芽生えてしまった罪悪感、そして、その罪悪感を解消しようと縋った先のアニータに「さようなら」って言われたからだ。

「私と面会したから、ラルフは死んでしまったの?」と問うナンシーに「そうだと思います」なんて、普通の神経を持っている人間の答えじゃない。自分が罪を犯したのだと自覚しながら、その罪を隠して人間関係を続け、隠れたところで発狂しながら精神科医を続ける。まともじゃない。でも、自分が「まとも」ではなくなったと自覚しているようで理解はしていないのだと思う。

アニータは、人間の本性は善であり、悪は後天的なものであると信じている。いわば、性善説論者※6だ。そして、自分の信念を守るためにも、全ての罪は後天的事象に起因するべきだと考えている。ラルフをはじめとする連続殺人鬼が罪を犯すのは、精神的・身体的虐待による脳の損傷の為であり、脳の損傷による疾病であると。

「悪意による犯罪を罪とするなら、疾病による犯罪は症状である」と主張するアニータはきっと、「好意による不倫は純愛である」と思いたいんだ。けれどそんなこと、法律は許さない。頭のいい彼女は、そのことをよくわかっている。だから苦しんでいる。苦しみに耐えられないから、許されたいと思っている。

ラルフ

気の毒だなとは思う。親からの愛を知らず、理不尽な虐待にさらされ、一般的な知能を持っていながら人間として重要な部分が欠落しているから、まともな社会生活が送れない。確かに、これはラルフのせいじゃない。アニータの言う通り「あなたにはどうしようもなかった」部分で、ラルフの人生は壊された。そこに同情はする。でもかわいそうだとは思わない。

ラルフは、自分の価値観だけで生きている。「こんにちは」とあいさつしたら「こんにちは」と返されなければならない。誘ったらついてくるのが普通だし、飽きたら殺せばいいと思ってる。そのくせ、世の中は全て清潔でなければならない。これが当たり前だから、罪悪感なんてこれっぽっちもない。

例えこれが、虐待の後遺症による脳の欠陥に理由があろうが、まっとうな幼少期を過ごしてこなかったための屈折した感情であろうが、自分で選択して人を殺したことは事実だ。善悪の判断ができなかったとしても、自分の頭の中で、被害者の子供たちが笑顔でついてきて楽しんでいたと変換されていたとしても、罪は罪だ。

ラルフは、長く生きてはいけない人だったんだと思う。もちろん、すべての人に生存権はある。でも、生き続けることで不幸になり続けると決定されているなら、短い人生であればあるほど、その人の幸福度は高く保たれるんじゃないかなとも考えられるのではないか?

ナンシーとの面会で、ラルフに初めて罪悪感が生まれた。自らが手にかけた子供は、立派に10年間を生き、家族に囲まれて大切に育てられた一人の人間であったのだと知った。その未来を奪ったことの、罪の重さを知った。だから、人生最大の心の痛みを感じて、どうしようもなく苦しんだのだと思う。

では、ラルフが死を選んだのは良心の呵責によるものなのだろうか?ローナに申し訳ないと思ったから死んだのだろうか?

私はそうは思わない。ラルフは、解放されたかっただけだ。自らの過去からも、良心の痛みからも、すべてから解放されたくて死んだんだ。痛みに耐えられなかっただけだ。

自殺は償いじゃない。裁判が終了して、刑が定まっているのなら、それ以外のどんなことをしたって司法上の償いにはならない。例え死刑を宣告されていたとして、刑が執行されるまでに勝手に死ぬことはつまり、「死刑の失敗」になる。良心の呵責に苦しんでいるからといって、自殺することは許されない。その生命が自然な死を迎えるまでずっと、塀の中で罪と向き合うことがラルフに課せられた罰なのだから。それでも、ラルフは死んだ。自分の価値観で生き、自分の価値観で死んだ。

エゴイズム

三人ともに言える。エゴだよ、それは。

エゴイズム、日本語に訳せば利己主義。これを描いた作品で、多くの人がぱっと思いつくのは、夏目漱石の『こころ』※7だと思う。この作品では、自分の感情を優先したがために、間接的に親友「K」を殺してしまった「先生」が描かれている。自分の恋を叶えるためにKを出し抜き、さらには「精神的に向上心のないものはばかだ」と言い放つ。自分を優先させたがために意図してKを傷つけ、意図せず自死に追い込んでしまった先生も、最後は自ら死を選ぶ。行き過ぎたエゴイズムが、破滅への道に成り得るということを表している作品だ。

『凍える』も、これに似ていると思う。

利己心を持たない人間などいない。誰だって、自分のために生きてしまう瞬間がある。自分のために生きられない人間は、人生を歩んでいけないからだ。しかし、だからと言って、他人の領域を侵害するほどの利己心を剝き出しにしていいという話ではない。その感覚を、人は人間関係の中から学んでいくのではないだろうか?人間は「社会的動物」であるのだから。

今回のこの『凍える』の悲劇は、三つのエゴイズムがぶつかってしまったことにある。いや、悲劇とは言い切れないかもしれない。ある意味で、ナンシーとラフルは解放された。私は、自分勝手に解放されたナンシーもラルフも、解放されようとしているアニータも許せないけれど、それは理想論だ。本当は、「許す」「許さない」なんて議論は存在しないと、それが人間の仕方のない部分であるとわかってはいる。

海の底が冷たいように、きっと人間の一番深い部分はすごく冷たいのだと思う。それこそ、「凍える」ほどに。理論武装されたこの作品から、終始、凍えるほどの恐怖を感じたのは、このような人間の一番深い部分に触れ続けていたからだと思う。

イングリッド

ナンシーの長女であるイングリッド。きっと彼女が、この作品の良心で、成長していく精神なのだと思う。凍えたように止まってしまった20年の時の流れを、彼女がタバコを吸い、お酒を飲み、チベットに旅立つ一連の流れから感じることができた。余談だが、イングリッドが「旅に出る。東へ行く」と言ったとき、ナンシーが「東って?インドにでも行くの?」と答えたことに、ひどく「大英帝国」を感じた。いつまでも「イギリスの東の果て」は、インドなんだろうなぁと。

イングリッドの存在は、時の流れを感じるためのものではない。

ローナのことにとりつかれて以来20年、ナンシーはイングランドを放ったらかしにしていた。これはネグレクトではないだろうか?立派な虐待だ。

では、ネグレクトされたイングリッドは殺人鬼になったか?ラルフのように、正常なコミュニケーションが取れない、欠落した人間に成長したか?
答えはNoだ。

成長したイングリッドは自分の足で立って、自分の考えでチベットに行き、教えに目覚めた。そして、自分の信念に従って「ラルフを許すべきだ」と言った。立派な女性になった。母親からの関心が向けられることなく育ち、父親は不倫をしている。そんな崩壊した家庭で育っても、人間になれるんだと、そう読み取れる。
これを踏まえると、やはりアニータの理論は破綻してる。

道に迷い、紆余曲折を経て、イングリッドは自分の人生を歩けるようになった。考えを押し付けることもせず、無理に解放されようともせず、自分を生きている。「イングリッド」という人間は、ナンシーの目線からしか語られないが、それでも、この作品の良心たりえると、私は思う。

 

『ゆるす』こと

「悪意による犯罪を罪とするなら、疾病による犯罪は症状である」なんて、私には納得できない。一貫して、ラルフは死ぬべき人間であると主張する。しかし、これを「赦す」のがヨーロッパの文脈なのだろう。キリスト教は「赦しの宗教」だから。

現在、ヨーロッパでもアメリカでも、熱心にキリスト教を信仰してる人は少数だ。1852年に40%だったイギリスにおける教会出席率も、2006年には6.3%※8となっている。ナンシーもアニータも、もちろんラルフだって、神を信じてなんかいない。
けれどもやはり、文化の根底に流れる概念はそう簡単に変わらない。いわゆる「基層文化」なのだと思う。不確かなものではあるけれど、ないとは言いきれない。

アニータは性善説にすがっているけれど、聖書は性悪説で始まる。人類は、アダムとイブが犯した「原罪」を受け継いでいると考えられるから。しかしその原罪は、キリストが磔になることで神からゆるされた。ものすごく簡単に言えば、このような流れだ。

旧約聖書に於いて、人類最初の殺人を犯したカインに対し、神は呪いを与えたが、復讐されることは禁じた。「だれでもカインを殺すものは七倍の復讐を受けるでしょう」※9と。キリストもこう言っている「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」※10と。

「許す」と「赦す」は違う。「許す」と言うのは「相手の希望や要求を受け入れて、許可する」ことであり、「赦す」というのは「相手のミスや罪などを責めずに、なかったことにする」ことである。神に赦されるためには、他人を赦さなければならない。「解放されること=赦すこと」なのだと思う。

自分のために誰かをゆるした、誰かに赦されようとした、このことをどのように捉えるかは、欧米人と日本人では大きく異なってくるかもしれない。少なくとも私は、このことを、とてもわがままなことだと思ってしまう。

死刑について

死んで詫びる。死を以て贖う。腹を切る。
長らく美化され続けてきた「武士道」を、きっと日本人は信仰している。新渡戸稲造の『武士道』や山本常朝の『葉隠』を読んだことのない日本人が大半であるであろうにも拘わらず、なんとなく想像している「武士道」に縛られている。「上の言うことは絶対である」「自己を優先することはわがままである」「どんなことがあろうと、なにかに殉ずるべきである」と。ブラック企業のような状態だけれど、このように、きっと日本人は「利己的である」ことを排除しようとする。

目には目を歯には歯を、罪には罰を。同害復讐の考えは単純でわかりやすい。「殺人者は、被害者遺族の為にも死刑になるべきだ。法律が、遺族に代わって復讐をするべきだ」という考えで死刑を肯定している人も少なくないのではないか?それも一理ある。けれど間違っていると、私は思う。

日本国憲法第14条第一項に「すべて国民は、法の下で平等であって…(以下略)」と明記されている。三権分立の基本のもと、司法は政治とも分立しているので、「裁判による復讐は、政治的解決」であることは、建前上あり得ない。ドイツの哲学者カントは言う、「刑罰は被害者の感情に基づくものではない。犯罪と言うものは公共に対する違反であり、刑罰は公共体の正義に基づくものである」※11と。

しかし、それでは納得できない人も大勢であるとおもう。つまり、犯罪者は必ず反省しなければならず、その罪を償う必要があるという考えだ。この時、日本人は特に、「死=最大限の償い」という図式が、頭の片隅で首をもたげるのだと思う。「なにか罪を犯しました。それは大変なことです。取り返しのつかないことをしてしまった。ごめんなさい。死んで詫びます。」この図式になることを理想としているのではないかと。

罰を受けることは、償いの姿勢であるべきだ。だから私には、ナンシーとアニータの気持ちがわからない。被害者遺族としてナンシーが赦したとしても、ラルフは刑罰を受けるべきだ。アニータの、「疾病による犯罪は症状」なんて理論も通用しない。その人が病気であることと、社会に対する罪を犯したことは分けて考えられるべきだ。先に述べたように、ラルフにも自殺する権利はない。刑を受けることが罰であり、自分で死んでしまうことは、償いから逃げることだ。

と、ここまでさまざま論じてきたが、これはあくまでも21年間日本で生きてきた私の考えであり、そもそも私は少々、封建的思想に偏っている部分もあるので、特にこの段落は、話半分で聞いて欲しい。

最後に

『凍える』は、非常に難しい作品だ。特にラルフを演じる坂本くんは、絶対に共感できない人物を演じることになる。現実では、ほとんど起こりえない物語を、実際には共感できない人物を、頑張って演じるしかない。とんでもない作品だ。

この考察に関しても、「この小娘は、長々と何も適当なことを言っているんだ?」と思われる方もいらっしゃるだろうし、「全く分からない。私はもっと違うことを考えた」と思われる方もいらっしゃるだろう。観た人の十人が十人、別の感想を抱くに違いない。私の説の、特にアニータの部分。「ラルフが自殺したのはアニータのせい」というのは、議論が分かれるのではないだろうか。パンフレットには、「ナンシーと面会したことが原因で自殺した。」ととれる言葉がたくさん登場する。それでも私は、ラルフを間接的に殺したのはアニータだと思っている。そう言うことだ。

物語の終わり、目の前が開けて暖かい光にあふれる上手側と、全く光が届かず冷たいままの下手側の対比が美しかった。光りある方で、すべてを受け入れたように泰然としているナンシーに対し、自分がどうあるべきかを見つけられていないアニータの対比は悲しかった。そのような光景をもって、最後のセリフが終わり、暗転し、カーテンコールに移行した時、私の中に残った感想は「この人たちは、なんてわがままな人たちなのだろう」と言うものであった。だから、この作品の主題は「エゴイズム」であると思った。他の方の感想を読めば、もっといろんな意見であふれていると思う。そうであっても、今まで書き綴ってきたことが現段階での私の考えだ。

とても深い作品に巡り合えた。後学のためにも有意義な観劇体験だった。この『凍える』で、年内のV6関連の現場参戦は終わる。来年も、今年のようにたくさんの作品に触れられる一年にしたい。

 

注釈

※1 河竹黙阿弥(1816年~1893年)江戸時代の歌舞伎狂言作家。代表作に『三人吉三』『青砥稿花紅彩画』(通称『弁天小僧』)など。

歌舞伎事典:河竹黙阿弥|文化デジタルライブラリー

※2 ここで言う『The last 5 years』は2021年の新演出版ではなく旧演出版。2005年初演の山本耕史さんがジェイミーを演じてたもののことを指す。私も実際には見たことがないし、TVでちらっと見たことがあるだけのものではあるが印象に残っている。以下のリンクは2021年の新演出版。

ミュージカル 「The Last 5 Years」公式サイト

※3 本水とは舞台上で用いられる本物の水のこと。

歌舞伎事典:本水|文化デジタルライブラリー

※4 ケレンとは大道具小道具の仕掛けを使った、観客を驚かせるような演出のこと。

歌舞伎事典:ケレン|文化デジタルライブラリー

※5 狐忠信(源九郎狐)は歌舞伎の大人気狂言義経千本桜』に登場する人間に化けた狐。奇想天外な動きを見せる四段目最後の「川連法眼館の場」が有名。こればっかりは、百聞は一見に如かず。劇場へどうぞ。

義経千本桜|文化デジタルライブラリー

※6 性善説と言うのは簡単に言えば「元来備わっている『善』の要素は、努力によって開花する。」という説。努力なくしてその『善』を開花させることはできないという教えなので、人間は無条件に『善』が開花していると捉えているものではない。(筆者調べ)

※7 『こころ』は上「先生と私」中「両親とわたし」下「先生と遺書」の三つから構成されており、ここでは特に下の「先生と遺書」に言及するものとする。

※8 参照:伊藤雅之、「21世紀西ヨーロッパでの世俗化と再聖化」

https://www.iisr.jp/journal/journal2015/P249-P269.pdf

※9 引用:旧約聖書 創世記4:15

※10 引用:新約聖書 マタイによる福音書6:14、6:15

※11 参照:北尾宏之、「カントの刑罰論」

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kitao.pdf